*微風*


 守るもの………
 求めるもの………
 守れなかったもの………
 得られなかったもの………
 俺の往く路は、何処にある?


 清涼な水の流れ。涼しげに戦ぐ木々の葉。人気のない山奥に、男が一人。長い髪を高い場所で一括りにし、手に桶を持ち、道なき道を歩く。暫く行くと、川の流れに辿り着き、男は慣れた足取りで幾つかの岩を飛び越えると、川縁に腰を下ろした。
 桶に水を掬い、立ち上がった男の視界に、飛び込んできた異物があった。
 川の中ほどにある岩に、何かが引っかかっている。それが人の形をしていることに気づいた男は、桶を置き、地面を強く蹴ると宙へと高く跳躍し、水に濡れることなく、人のかかった岩の上へと飛び移った。
 細い、けれど水を吸って重い衣服を纏った体を岩の上へと引き上げ、口元へ耳を寄せると、呼吸があった。
 頭に傷を負い、手足や腰、体の各部に細かい擦過傷が散見された。
 男は懐から布を取り出し、割れたような傷口から流れる血を押さえるために頭へ巻きつけると、乱暴ではあるが細い体を肩へ担ぎ上げ、強く岩肌を蹴り、宙へと跳躍し、水に濡れることなく、川縁へと戻ると、置いたままにしていた桶を持ち、来た道を戻った。


 流れる人の波に眼を凝らしながら、溜息を深々とつく。
「で、何で俺がてめぇと組んでんだよ?」
「殿サマの命令ですからねぇ」
「くそっ!」
 由利鎌之介がいなくなった。それは、才蔵が自身の中にあった苛立ちをぶつけてすぐのことのようで、上田の城内は愚か、領内にすらその姿を見かけることがなかった。
 火の勇士が変わり、雷の勇士が上田の地を去った。その上、風の勇士にまで消えられては敵わない、と考えた幸村が、喧嘩の原因である霧隠才蔵と服部半蔵に、探して連れ戻して来い、と命を下した。
 鎌之介には、戻る場所もないだろう、と。
 鎌之介は元々盗賊だった。勇士になる前に才蔵達と戦い、仲間を全員殺されている。行くあてなどないはずだ。行くあてがあるのなら、根津甚八のように心を決めて出て行ったのなら仕方が無い、文句は言えぬ、幸村はそう言った。だが、そうでないのなら………
 才蔵との仲違いが原因ならば、きちんと解決しろと、そういうことだった。
 髪色が紅い鎌之介の姿は、よく目立つ。眼の周囲に刺青を差してもいるから、すぐに分るはずだ。そう考えていたが、何の情報もない中で、虱潰しに町や村を巡っているが、何一つ、有益な手がかりを得られない。
 溜息の一つや二つ、つきたくなるというものだった。
 視線を、右から左、左から右へ流していると、半蔵が壁に持たれかけさせていた背を浮かせた。
「何だよ?」
「濃い血の臭いがしますよ」
 半蔵の視線が動く。それを追うように才蔵も視線を向け、人の流れの中に、異様な男を見つけた。
「あいつ」
「知り合いですか?」
 以前見た時とは違う、着流しのような着物姿ではあるが、纏う雰囲気は、隠しきれるものではない。
「風魔」
「風魔?あの?へぇ」
 男は、一つに括った長い髪を靡かせて、人の波の間を縫うように歩いていく。その姿を注視していた二人の視線の先で、男は薬屋の暖簾を潜った。
 暫く待つと、男は薬の入っているのだろう包みを持って往来へと出て来、人の波を縫って、来た方角へと歩き去った。
「つけてみるか」
「あの風魔なら、是非お手合わせ願いたいデスね」
「んな場合じゃねぇだろ」
 忍には、忍の情報網がある。主君を失った忍と言えど、伝説と呼ばれるほどの男であれば、様々な情報を持っているだろうと、才蔵と半蔵は、男の後をつけた。


 人の多い町の中を抜け、人の往来がなくなり、田の畦道を抜け、人の耕す田畑すらなくなり、人家すらなくなると、唐突に、男が振り返った。
「何処までつけてくる心算だ?」
 流石………と、才蔵は肩を竦め、大人しく姿を現す。
「もう一人いるだろう?出て来い。隠形など俺には子供騙しだ」
 闇に紛れるように気配も呼吸も消していた半蔵も又、仕方ない、とばかりに姿を見せて溜息をついた。
 鋭い視線が三対、それぞれに交わされる。口火を切ったのは、薬の入った袋を懐へと仕舞い込み、代わりに短刀を抜いた男だった。
「貴様、あの時に見た伊賀者だな?」
 雇われて赴いた上田の地。其処で待っていたのは、十人対十人の、勝負事。生温い遊びのような戦いに一石を投じる伊達政宗に乞われて戦ったのは、そう遠くない記憶だった。
 苦い、敗北の記憶。
 その際に、上田側の席に座っていた忍の一人だった。
「よう。十番勝負以来だな」
「十番勝負なんて面白いことやってたんですか?俺も誘ってくれればよかったのに」
「てめぇは黙ってろ」
「………何の用だ?」
「そう警戒すんな。聞きたいことがあるだけだ」
 刃を仕舞うように促して、才蔵は半歩、前へ足を踏み出した。
「聞きたいこと?」
「人を、探してる。紅い髪の、左の目に刺青を差した奴だ」
「………知らんな。そいつが何なのだ?」
「ちょっと、な」
「それだけならば、失せろ。俺はもう、何処にも関わる気はない」
 言うなり、懐へ短刀を仕舞い、風魔は背を向けると、二人の前から姿を消した。


 つけてくる気配のないことを確認し、移動する速度を少し落とすと、慣れた獣道を、それでも素早く移動する。
 暫く山を登ると、何処からか微かな水音が聞こえてくる。風魔が結んだ、小さな庵が近い証だ。
 武将同士の争いごとに巻き込まれるのが嫌で、あの十番勝負以来、風魔は人を避けるように、山の中で暮らし始めた。人と関わるのが、億劫だったからだ。人里にいれば、自ずと何処かで自身の噂は口の端に上るだろう。そうすれば、仕事の依頼は舞い込んで来る。“風魔”は、そうした名前だからだ。
 けれど、今、その名前は、重い枷でしかない。何一つ守ることの出来なかった自分には過ぎた、重い、名前なのだ。
 だからと言って、捨てることも出来はしない。その名前自体が、自身を示す唯一のものであるからだ。
 捨ててしまえば、自分は自分ではなくなってしまうだろう。
 木々に埋もれるようにして、ようやく小さな庵が見えてきた。獣道すら途切れた、草の伸びきった道を登り、引き戸を開ける。周囲の気配をもう一度確認し、誰もいないことを確かめて引き戸を閉め、心張り棒を差す。
 土間に置かれた水甕から、傍にあった碗へ水を一掬いし、それを持って板の間へと上がる。敷かれた布団の上で、体を起こしている細い姿に、一つ安堵の息を吐く。
「食事は摂れたか?」
 紅い髪が揺れて、振り返った青白い顔が静かに頷く。白い手元には、空の器があった。


 守れる何かが欲しかったのかもしれない。
 守られてくれる、何か、誰かが。












2013/11/8初出