*烈風*


 眠り薬を混ぜた痛み止めを飲ませ、暫くして穏やかな寝息が聞こえてきたのを確認し、風魔は立ち上がった。
 背筋が痛くなるほど、庵の外から殺気が向けられている。致し方ない、と音もなく引き戸を開けて、外へ出る。
「あいつを、何処で?」
 戸を閉じる暇すら与えずに、漆黒の忍が口を開く。呆れたように溜息を零し、後ろ手に戸を閉め、向き合って風魔は口を開いた。
「尋ねる前に、名乗ったらどうだ?名乗りもしない者に、答えてやる必要はない」
 一人は以前に一度姿を見ているが、もう一人は初めて見る顔だ。その上、名乗りもしない者の疑問に答えてやるほど、風魔は甘くなかった。
 名乗りを上げるまでは答えてやるものか、と言う風魔の気配を感じ取ったのだろう、漆黒の忍が肩を落とした。
「霧隠才蔵。で、こっちが」
「服部半蔵デス」
「服部?服部は徳川の忍だろう?何故上田の者と?」
「クビになっちゃいまして。上田の殿サマに雇ってもらったんです」
「んなことより、あいつは何処で?」
 才蔵は、そのまま暢気な世間話でも繰り広げそうな半蔵を横目で睨みながら、話を軌道修正する。
「川で拾った。岩に引っかかっていて、大怪我をしていたから治療をしている。さっきも見た通り、頭の傷は未だ血が止まらない。右足も折れていて歩けん」
 治療の際についた右手の血を眺めて、懐から取り出した布で拭う。
「使い物になりそうもないデスね」
「てめぇ」
「何です?事実でしょ?連れ戻した所で戦えないですよ、それじゃ。殿サマは戦に備えたいんですから」
 衿でも掴もうとしたのか、伸びてきた才蔵の腕を叩き落としながら、半蔵は肩を竦めてみせる。
「上田に連れ戻す気か?」
「ああ」
「やめておけ。自分の名前も、何処にいたのかも、何をしていたのかも、あの者は覚えていない」
「っ………」
「あの者の名前は?」
「由利鎌之介」
 せめて名前だけでも、と聞いた響きに、風魔は微かに眉間に皺を寄せた。
「………男のような名だな」
「え?あの子、男の子じゃないんですか?」
「濡れた着物を脱がせた時に確認したが、女子だったぞ」
「え〜あんな戦い方で女の子って、すげぇデスね」
 かつての乱暴な口調と後先考えない戦いぶりを思い出して、半蔵は肩を落とした。どう勘繰っても、あの言動と戦い方は男だ。
「あの者は戦えるのか?あの細腕で?」
「そんなのはどうでもいいんだよ。上田なら薬に精通している奴もいる。連れて帰るぞ」
「………好きにしろ。本人が帰りたいと言うなら、それがいいのだろう。だが、恐らくそうは言わん筈だ」
「何でだよ?」
「言っただろう?何も覚えていないし、思い出せもしないのだ。突然現れたお前達に、かつての知り合いだからついてこい、帰るぞと言われ、ついていくと、帰ると思うのか?」
「………それでも」
「本人次第だ。無理強いはやめろ。明日の朝又来い。眼が覚めてから問えばいい」
 音が鳴りそうなほど拳を握り締めた才蔵へ鋭く言葉を投げつけて、風魔は背を向け、二人の眼の前で庵の中へ入ると、音を立てずに引き戸を閉め、心張り棒を差した。


 暗闇の中で、振り払われた自分の手を見下ろして、きつく、指を握りこむ。
 細い、手首だった。か細い、声だった。今まで、見て見ぬ振りをしてきた、鎌之介の女の部分を、正面から突きつけられたような気がした。
 その上の、強い拒絶。
 当たり前だ。今の鎌之介にとって、才蔵は所詮、知らない人間、なのだから。
「それで?一体どうするんです?」
「連れて帰る」
「面倒ですね」
「面倒、だと?」
 少し離れた場所で、糒を口に入れている半蔵を睨む。
「面倒ですよ。記憶もない、戦えないただの女を抱えて上田まで、って。ついて来られないでしょうが」
 忍の足は速い。以前の鎌之介ならばまだしも、風魔の言葉を信じるのならば、頭だけではなく足も怪我していると言うことだ。そんな、歩けもしない女を抱えて移動するのは、面倒なだけだった。
「それに、殿サマは戦に備えたいから勇士を揃えておきたいんでしょ?そんな場所へ戦えない女を連れて帰って、如何するんデス?無意味ですよ、無意味」
 もういっそ、このまま風魔に預けて面倒を見てもらえばいい。そうすれば、戦で逃げ惑う必要もなく、足手纏いになることもないだろう。
「………それでも」
「それでも、連れて帰るってんですか?なら好きにしてくださいよ」
 半蔵は木の上へ飛び上がり、拳を握り締めた才蔵を見下ろす。
「俺は戻ります。殿サマに報告しますよ、現状を。それに、痴話喧嘩に関わる気は毛頭ないんで」
「あぁ?」
「痴話喧嘩でしょ?そんなくだらねぇことに巻き込まねぇで下さい」
 甘ったれた男に何時までも付き合うほど、半蔵はお人好しでもなければ、優しくもないのだ。
 暗闇の中へ身を躍らせて、姿を消した半蔵を追いかけることなく、才蔵は、握り締めていた拳を解き、幾重にも重なる葉に遮られて星も見えない空を、見上げた。


 足元にあったはずの地面が急に消え失せ、一瞬、体が宙へ浮いたかと思うと、恐ろしいほどの速さで落下する。
 落ちる。落ちる。落ちていく。何処とも知れない、深い、闇の中へ。
 冷たい水に触れたかと思うと、それはたちまち全身を包み込み、強く、鋭く、痛みを与えるように襲いかかる。
 声も出ず、腕も足も動かせずに、ただ、自身を包み込む水の強さに流されて、苦しみだけが増していく。
 きっと、これは、罰だ。
 弱い自分への、罰。
 なら、この痛みも苦しみも、与えられてしかるべきなのだろう。
 そう思って、瞼を閉じた。


 暗がりの中、乏しい油皿の灯心が微かに放つ明かりの中で、風魔は、使っていなかった綺麗な布を一枚、掴んだ。
 穏やかな寝息を立てて眠る横顔。その、刺青の差された左目の縁から、仄かな光を伴って滑り落ちた雫を、拭き取ってやる。だが、それは後から、後から幾筋も溢れ落ち、暫くすると、とまった。
 呻きも、苦しみもせずに夢中で流す涙は、一体何に因るのか。
 とまった涙の痕が残らないように拭ってやり、消えそうな油皿に、少しばかり油を足してやる。
 血の気の薄い、青白い頬に、少し勢いを増した油皿の中の火の橙が、よく映えた。


 花を手折るのは容易い。
 だが、花を愛でるのは難しい。
 踏み潰さず、手折りもせずに愛でるには、この手は血に染みすぎている。
 愛でることも出来ずに、守ることなどできはしない。












2013/12/7初出