*風魔*


 朝露が、濃い緑の葉の上で震えて落ちる。その様を眺めて、まるで涙の落ちる瞬間のようだ、などと感傷的なことを思った才蔵は立ち上がって、ことりとも音のしない侘しい庵へと近づいた。
 引き戸に手をかけようと伸ばした瞬間、内側から開き、無表情な男が立っていた。
「あの娘が眼を覚ました」
 促されて中へ一歩足を踏み入れると、狭い板張りの床の上に敷かれた布団の上で、上半身を起こしてぼんやりとした視線で、何処ともない空を見つめている横顔があった。
 急に近づいて、昨日のように拒絶される位ならば、と、才蔵は床の上へ上がることをせず、腰だけを下ろした。
 その気配にすら怯えたように、肩を震わせてこちらをちらりと見る姿に、ああ、何にも覚えていないのだと、強く意識させられた。
「昨日は、悪かったな」
 返事はなく、真直ぐに才蔵を見ることもしない視線が、泳ぐ。
「お前を、探しに来たんだ。お前の居た場所に、一緒に戻ろう」
 連れて帰りたい。今すぐにではなくとも、いつかは記憶が戻るかもしれない。上田で過ごせば、何かを思い出すかもしれない。
「帰ろう、鎌之介」
「っ………」
 息を呑んで、掛けている布団の端を握り締めた白い手が、震える。そして、その首は、左右に振られた。
「鎌之介………」
 名前を呼んでも、拒否するように首は左右に振られ、完全に顔を才蔵から背けてしまった。
「………………そう、か………」
 何時までも、こうしてはいられないこと位才蔵にも分っている。半蔵に言われるまでもなく、今の鎌之介が足手纏いになるであろうことも。
 それでも、才蔵は、鎌之介を連れて帰りたかったのだ。
 側に、いて欲しかった。
「悪かった。お前を、傷つけたんだよな、俺は」
 泣かせる気などなかった。傷つける気などなかった。どれだけそう言葉を重ねたところで、あの瞬間に鎌之介の感じた痛みや苦しみを、才蔵が知る術はないし、癒せることでもないのだろう。
「俺が、驕ってただけだ。分ってなかっただけだ」
 自分のことばかりを考えて、周囲のことに目を向けていなかった、自分が悪いのだ。
 気づいた時には、もう、既に遅すぎたと言うのに。
 腰を上げて、才蔵は庵の入口に向かった。
 一度も、鎌之介はまともに才蔵を見なかった。それが、きっと、答えなのだ。
 引き戸を開けて、外へ出る。それまで黙っていた風魔が気配もなく才蔵の半歩後ろについてきて、後ろ手に引き戸を閉めた。
 朝の日が、森の中へ微かな陽光を差し始めている。
「あいつのこと、頼む」
「ああ」
「もし、記憶が戻ったら………」
「言ったはずだ。本人次第だと。俺は、所詮人を守ることなど出来ない人間だ。だが、だからと言って今更戦に加わる気もない」
「そうか。お前なら、何処でも雇いそうだけどな」
「愚かしい。主を守りきれなかった忍など、役立たずに過ぎん」
「なら、会うのはこれっきりだな」
 言うなり、才蔵は強く地を蹴って躍り上がると、木々を伝うようにして、足早にその場を後にした。
 最後に見た鎌之介の姿が、瞼の裏に浮かび上がる。才蔵の揮った刃に傷つけられて、才蔵の言葉に衝撃を受けて、眼を丸くしていた鎌之介の姿が。
「くそっ!俺は、何をしてやがんだ!」
 それでも、才蔵には止まることが許されない。真田の勇士として、光の勇士として、やらなければいけない仕事がある。
 嘆くことも、許されないのだ。
 それが、忍なのだから。


 気配が完全に遠ざかるのを確認して、風魔は引き戸を開けて中へ入った。今度は、もう心張り棒は差さなかった。
 板張りの床へ眼を向け、先ほどと大して変わらない姿勢のまま、けれど顔を伏せている姿に視線を向けて、溜息をつく。
「そのように泣くのならば、あの男と共に行けばよかっただろう?」
「っ………うっ………」
 朝方、瞼を開けた時、風魔はこの娘の眼が違うことに気づいた。強さが、鋭さが、全く違った。
 なるほど、この眼ならば、戦う強さがあるのだろうと、そう思わせる眼だった。
 だが、風魔が、仲間が来ていると告げた途端狼狽し、何も言わないでくれと言われた。だから、黙っていた。
「由利鎌之介、と言うのがお前の名か?」
「ああ………」
「そうか」
 大粒の涙が、次から次に零れ落ちて、布団に染みを作っていく。
「ふっ………うぅっ………さ、いぞ………」
「演じずとも、記憶が戻ったと、共に上田へ戻れば良いものを」
「出来、ない………俺は、よ、わい、っ、から………」
 弱いから、才蔵の隣には立てない。一緒に戦うことも出来ない。今更、上田へ戻ることなど、出来なかった。
「恋しいのでは、ないのか?」
「こ、い?」
「あの男を、想っているから、そのように涙が出るのではないのか?」
「わ、かん、な………とま、んねぇ」
 落ちてくる涙を、両の手で拭い続けても、後から零れる雫に際限はない。
「存分に、泣けばいい。枯れるまで泣けば、気持ちも落ち着くだろう」
 殺しの術は心得ていても、女子供の涙を止める術など、風魔は心得ていなかった。


 雨の雫を払い落とし、被っていた笠を壁に立てかけて庵の中へ足を踏み入れる。
 薄暗い中、釜の前でしゃがみこんで、火を熾している姿があった。
「上田に、徳川の軍が侵攻した」
「………あ、そう」
「気にならないのか?」
「あいつらが、いるから」
 火を熾し終えたのか、右足を引きずるようにして歩きながら、薪を幾つか掴む。
「無理をするな」
「動いてないと、体が鈍る」
 一つ、二つと釜の中へ放り込んで火を強くすると、その上で炊いている鍋の中を確認する。
「これから、どうする?」
「………考えてない」
「いつまでいるつもりだ?」
「いちゃ、駄目か?」
「俺は構わん。死んだも同然の身だ」
「なら、俺もそうだ。もう、あの時にきっと一度、死んだんだ」
 才蔵に負けた、あの瞬間、一度、由利鎌之介は死んだのだ。
「死人同士、仲良くしようぜ」
 自嘲気味に笑う、泣きそうな顔に手を伸ばし、刺青の施された左目の縁をなぞるように指を滑らせる。
「何だよ?」
「いや………綺麗な眼だと思っただけだ」
「変な奴」
 苦笑する頬から顎へと指を滑らせ、上向かせて軽く開いた唇を啄ばむ。
 拒絶されることも、受け入れられることもないその行為は、少しだけ、死んだはずの風魔の心を波立たせた。
「本当に、変な奴だな、お前」
 眼の前で、紅い髪が揺れる。強い意志を宿した双眸が、炎に注がれた。
 この花は、きっと、風に吹かれても折れることのない、花だ。
 魔の風にすら、手折られることは、ない。







風魔+鎌之介のお話完結です。
この後別にこの二人はどうなることもありません。
何となく惰性で一緒に生活していきますが。
多分、その内鎌之介はふらっといなくなると思います。
で、風魔も別に探そうとかしないと思います。
どちらも風のように一所に留まることはないのだろうな、と。
そんな風な着地点にしたかったのですが………少しずれたか。





2013/12/21初出