息が切れる。足元が覚束なくなる。明かりを求めて、ただ前へ、前へと進み、這いずって土を掻く。 微かな水の匂いと湿りを感じ、急いでそちらに足を進めると、轟音が近づいてくる。 草を掻き分け、太い木の根元に足を取られながら進んだ先に、勢いよく落ちる水と、そこから流れる清流があった。 転がるように川に近づき、頭を突っ込む。久しぶりの水に、渇いた咽が潤い、汚れた頭からこびりついた血が流れ落ちていく。 だが、微かな血の匂いに気づいた獣が、密やかに足音を忍ばせて、近づく。 久方ぶりの極上の獲物に、獣の口元からは涎が垂れ下がり、そっと、水に頭を入れた小さな影に、近づいた。 しかし、獣は後方から音もなく飛んできた礫に鼻面を撃たれ、短い悲鳴を上げて飛び退ると、そのまま森の中へと逃げ帰った。 獣の小さな悲鳴に、ようやく水から顔を上げた影が、自分の背後へ視線を向けると、そこに、自分よりも頭一つ高い影を見つける。 「お前、どっから来た?」 気安くかけられた声に、影はじりじりと足を後ろへ下げ、逃げようとする。 「こんな夜更けに森の中を出歩くなんて、何考えてんだ?しかも、丸腰で」 手の中の石礫を弄りながら、小さな影へ近づく。 「何だよ?言葉が分からないのか?」 「っ………」 近づいてくる影に、小さな影はそれ以上下がれないのに、更に足を後ろへ下げる。すると、勿論川縁に立っていたのだから、体勢を崩して落下しそうになる。 しかし、もう一つの影が見事な速さで近づいて細い腕を掴み、落下する前に引きとめ、引き寄せる。 「あっぶねーな。気をつけろよ」 途端、小さな影の懐から、空腹を訴える小さな音が響いた。 「ぷっ………あははははっ!何だ、お前、腹が減ってるのか?」 盛大に笑われて、小さな影は恥ずかしさで顔を真っ赤にするが、半月の夜の暗さで、その表情は見られることなく、済んだ。 「来いよ。塒に木の実があるから」 自分よりも小さな影の腕を、返事を聞くことなく掴んで引いて、影は歩き出した。 小さな火を熾して暖を取り、洞窟の奥から貯めていた木の実を取り出して、自分より小さな子供の前に置く。 「食べていいぞ。腹減ってるんだろ?まだあるから」 必要なら、また明日取ればいい。そう思いながら見ていると、小さな手がおずおずと伸ばされて、赤い木の実が掴まれる。それが口の中へ消えると、木の実の甘さに食欲をそそられたのか、二つ目、三つ目と、木の実は立て続けに口の中へ運ばれていく。 「お前、何所から来たんだ?」 話しかけると、栗鼠のように頬を膨らませた子供が、頭を左右に振る。言葉は通じているようだと分かり、更に尋ねる。 「じゃあ、何所へ行くんだ?」 これにも頭を左右に振る。口をもぐもぐと動かして、入っていたものを呑み込んだ子供が、初めて口を開く。 「にげて、きた」 小さく呟かれた高い声に、女の子なのか、と驚いた。 「逃げて来た?何から?」 「怖い、もの」 「怖いもの?」 漠然とした答えに、子供が首を傾げていると、また手を伸ばして木の実を口に入れる。きっと、何日も食べ物を口にしていなかったのだろう、必死なその様子に、子供は哀れみを覚えた。 ふと、揺らめく焚き火の炎に炙られた少女の髪が、炎の色ではない紅色であることに気づき、手を伸ばした。 「これ、染めてるのか?」 肩を震わせて、怯えたように腰を引いた少女が、頭を左右に振り、口を開く。 「母さんと、一緒」 「へぇ」 じゃあ、異人の子なのかな。だから、左眼に入墨が入っているのだろうか、などと思いながら手を引いて、小さくなった火の中へ薪を放り込む。 「親は?」 「………死んだ」 「そっ、か………あ!じゃあ、里に来いよ。俺が修行終えたら、連れて行ってやるよ」 悪いことを聞いてしまったな、と思ったから、極力明るい声を出す。 「里?」 「そう。俺の住んでる里」 「里………うん………」 「眠いのか?寝ていいぞ?此処は安全だからさ。な?」 「うん………」 空腹が満たされて眠くなったのか、促されて、素直にころりと地面に横になってしまった少女から、すぐさま寝息が聞こえてくる。 子供は、親を亡くして可愛そうなこの子を里へ連れて行こう、と決心した。 塒にしている小さな洞窟の中に、陽の光が差し込んで、焚き火の火が消えた頃に眼を覚ました子供は、勢いよく起き上がり、火の傍にいたはずの少女がいなくなっていることに気づいた。 慌てて洞窟の外に出ると、草を掻き分けたような跡がある。それを追っていくと、昨日少女と出会った川に向かっていた。 滝壺に水が流れ落ちる音が近づいてきて、叢を掻き分けると、川のすぐ傍で、少女が水の中を覗き込んでいる。 と、少女が川の中に手を入れて、掬った水で顔を洗っている。そのまま、濡れた手で髪を濯ぐようにして、水を飛ばすように頭を左右に振る。 「おはよう」 「おは、よう」 振り返った少女に声をかければ、困惑したように返してくる。 その時、子供は初めて、少女が身に纏っている着物が、おかしいことに気づいた。 出会った時には乏しい月明かりの下で、その後も頼りない焚き火の明かりだけで互いを見ていたから、着物の柄にまでは目がいかなかったのだ。 少女の纏う白い上衣と紅鳶色の袴には、染み付いたような赤黒い血が、べっとりとついていた。それも、襟から腰辺りにかけて、満遍なく。まるで、吹き出した血を浴びたかのように。 けれど、少女はそんな自分の着物には興味がないのか、挨拶を交わして黙ってしまった子供に、小首を傾げている。 言うべきか、言わざるべきか………迷った挙句に、子供は黙っておくことにした。 怖いものから逃げてきた、と言った少女がまた、その怖いものを思い出すかもしれないし、それは可哀想だと思ったからだった。 そして、子供は少女を木の実拾いに誘い、師から言い渡された修行の終わりまで、少女と行動することにした。 修行が終わったら、少女を里へ連れて行こう、親の無い子供の沢山いる里だ、きっとすぐに馴染める、そう思って。 けれど、少女は数日後突然、子供の前から姿を消した。獣に喰われた気配もなかった。血の臭いもしなかった。なのに、忽然と、消えてしまったのだ。 子供が一人、兎を狩りに出ている間に、洞窟から消えていた。 何処へ行ったのかと探そうとして、子供は少女に、名前も聞いていなかったことを思い出して、呼べない名前に呼ぶのをやめた。 そして、一人で里へ戻った。 もしかしたら、山で一人、心細くいた自分の為に、師がよく口にする、八百万の神が使わした何かだったのかもしれない、と思い込むようにして、忘れた。里の誰にも、少女のことは打ち明けずに。 ただ、洞窟の中に置き去りにされた、少女のものと思しき、綺麗な一枚の布だけが、その存在が嘘ではなかったのだと証明する、ただ一つのものだった。 ![]() これは丁度、百が初登場した頃に書き始めた話です。 なので、多少原作には沿いますが、大分違っていると思ってください。 少し長くなるかもしれませんが、お付き合いくださいませ。 2016/10/29初出 |