*天理人欲-幽明-*


 結局、自分は生き残った。大坂の陣を生き残り、主を守れず、仕える主君を失い、それでも生きているのは、まだ、やり残したことがあるからだ。
 引きずるように連れて来た佐助の眼には、もう、生きる気力が失われている。自害しかねなかったその頬を打擲し、生きることを強いたのは、自分だ。まだ、残された仕事があるだろう、と。
 六郎と大助は、幸村と共に戦場で散った。それが、戦乱の世を終わらせる自分達の役目だと、そう言って。けれど、忍である自分達には、それが許されなかった。忍は、主を変えて生き延びることが出来る。生きられるならば生きろ、と言われた。それが、最後の命令だった。
 そして、救える命を救え、と。
「おい、行くぞ、猿」
 微かに頷いたのを確認し、才蔵は地を蹴った。佐助も、鈍いながらそれに反応し、空へと飛んだ。


 伊佐那海を、イザナミと共に黄泉へと還したあの時、満身創痍だった全員が、それぞれ手を貸しながら立ち上がった中で、鎌之介だけが、立ち上がらなかった。
 駆け寄った才蔵は、眼を疑った。
 全身に、墨が施されていた。それは、才蔵やアナスタシアの師匠である百の得意分野の一つで、彼自身、自分へと施している。力を借りるための補助であるとか何とか聞いたことはあるが、詳しいことは知らない。だが、つい数瞬前まで見ることの出来なかったそれは、わざと隠されていたのだろう。それが、突然見えるようになった。
 額から頬へ、首筋から胸元、腕や足へ至るまで満遍なく施されたそれは、まるで、縛めのようだった。
「おい、鎌之介!」
「………んだよ、うるせぇな」
 瞼を開けるのが億劫で、ようやく、覗き込んでくる才蔵を見上げる。
「お前、この墨、如何した?」
「ああ………百に、頼んだ」
「は?これ、どういう墨だ?」
「力を、限界なく、引き出せる」
「何だよ、それ?」
 溜息をついて、重い腕を、ゆっくりと上げる。まるで、自分の手ではないような、細さと重さだった。
「どうせ、寿命だから」
「寿命?」
「俺、さぁ、結構、長生き、なんだよなぁ。閉じ込められてた時間、が、長かったから、多分、その間に、百年位、生きてた」
 瞼を閉じて、暗く、冷たい、牢獄を思い出す。母親と共に閉じ込められた、牢獄。天人の肉で、不老不死を得ようと躍起になった村人達に、虐げられた、地獄。
「今、何歳か、わかんねぇけど、多分、寿命なんだよ。何となく、分かる」
「いや、だから、何でそれで」
「だったら、俺は、戦って死にたい」
 寿命を待ってのんびり生きるのも、床で死ぬのも真っ平だ。母親のように搾取されて閉じ込められて、挙句の果てに自ら命を断つなどは、最悪だ。だったら、自分の命を燃やせる場所で、燃やし尽くしたい。
 それだけが、鎌之介の願いだった。
「あー、悔しい、なぁ」
「悔しい?」
「結局、俺、才蔵に一度も、勝ててない」
「俺の勝ち逃げでいいのかよ?」
「嫌だけど、何か、もう………」
 上げていた手が落ちる。手を上げる力も籠められない。瞼も、開けられない。
「もう、ね、むい………」
「おい、鎌之介!寝んな!」
 頬を軽く叩いても、鎌之介は眼を覚まさなかった。その周囲に、いつの間にか全員が集まっている。
「才蔵」
 幸村の手が才蔵の肩を叩き、横に腰を下ろし、鎌之介の頭を撫でた。
「よくやってくれた、鎌之介」
「オッサン」
「鎌之介が、天人の血を引いていると言うのなら、我々とは寿命が違うだろう。理も、人や神とは違うかも知れん」
 天人は、神以上に理解の及ばぬ存在だ。人に近いのか、神に近いのかもわからない。何故なら、幸村とて出会ったことがあるのは、今此処にいる鎌之介が初めてなのだから。
「眠いと言うのだ。寝かせてやれ。普段から居眠りばかりしていたのだ。きっと、すぐに眼を覚ますだろう」
「………ああ」
「さて、抜け出してきたからなぁ。九度山へ戻るとするか」
「大人しく戻るのかよ?」
 立ち上がった幸村を見上げて、才蔵は驚いた。てっきり、このまま何処かへ雲隠れでもするつもりかと思っていたのだ。
「戻るわい。戦は暫くないだろうしな。悠々自適の隠遁生活だ」
「だらしのない隠遁生活など、認めません」
「口だけは減らぬのう、六郎。さて、甚八、お主はどうする?」
「俺様は船に戻るぜ」
「半蔵、お主は如何する?」
「そうデスねぇ。徳川に戻ります、かね?」
「はぁあ!?」
「だって、殿様、給金出せないでしょ?」
「まあ、金は払ってやれんなぁ。隠遁生活だから」
「お金のない主には仕えない主義なんで。世の中金ですよ、金」
「はっはっはっ!潔くていいわ!」
 幸村が扇を広げ、豪快に笑い、才蔵が抱えるようにしている鎌之介へ視線を落とす。
「才蔵、鎌之介を匿えるか?」
「………何とかする」
「佐助、お主も同行しろ。鎌之介に何かあれば、知らせてくれ」
「幸村様」
「佐助、忍を九度山に置くのは危険だ。徳川に知れれば追及の手は免れまい。連絡は常に取り合う。それで良いな?」
「………諾」
「才蔵、頼むぞ。せめて、鎌之介だけでも」
「まあ、約束したしな。勝ち逃げするのも気分悪ぃし」
 伊佐那海が姿を消し、アナスタシアが命を落とし、鎌之介が瀕死。生き残ったのは、男ばかり。こんな、不条理なことがあるだろうか。戦場で、戦いの場で、命を落とすのは本来、男の役目のはずだ。この、戦国の世においては、尚更。
 女に生かされるなど、男としては名折れも甚だしい。
 才蔵はその時、扇を握り締めた幸村の手が震えているのを視界に捉えていた。怒りか、悲しみか、己への憤りか………それを、少なからず汲み取れたからこそ、おめおめと、戦場から命を拾ってきたのだ。
 そして、今向かっているのは、山の中。
 才蔵が初めて鎌之介と出会った、あの場所だった。


 あの時と変わらず、高い場所から落ちる水は、轟々と音を立て、滝壺へと吸い込まれて川になっている。川縁を歩き、滝へと近づいて、岩壁の凸凹している部分へ腕をかけ、滝の真ん中辺りへと上り、ゆっくりと滝へ近づく。流れる水から跳ねる飛沫を浴びるようにして、滝の裏側へと潜り込むと、そこには大人一人が中腰になって歩ける程度の大きさの洞窟があった。
 後ろからついてくる佐助を気にしながら、そこへと入り、奥へと歩を進める。すると、ぼんやりと、橙色の明かりが見えた。
「全く。ようやく帰ってきたかい。師匠に用を言いつけてく馬鹿な弟子があるかい?」
 微かな明かりで、寝そべって本を読んでいた百が体を起こす。才蔵が連れている佐助を見ても、何も言わない。
 才蔵は、背負っていた荷物の中から酒瓶と盃を出した。
「悪い、師匠、もう少し、付き合ってくれ」
 腰を下ろした才蔵は、百の少し後ろ、明かりが届くか届かないかの位置に眠っている、あれから一度も眼を覚ましていない鎌之介が包まれた繭へと、視線を向けた。












2017/9/30初出