*天理人欲-酒盃-*


 盃が、十。その内、手が付けられたのは、たったの三。残りは清海、十蔵、アナスタシア、伊佐那海、六郎、大助、幸村に、だ。手の付けられなかった盃の中の酒は、その面を軽く波打たせている。
 才蔵も佐助も、酔えはしない。そして、勿論、百も。
 伊佐那海を封じた後、才蔵は佐助に鎌之介を任せ、暫く百を探しに出ていた。鎌之介に施されていた墨のことも聞きたかったし、何より、天人に関して知っているのも、百しか思いつかなかったからだ。だが、既に百は伊賀の里を後にしており、行方知れずになっていた。
 才蔵が探しに来ることを見越していたのかどうかは知らないが、誰にも行先を告げず、痕跡も残さず、足取りがふつりと途絶えた。
 だが、大坂の陣が始まる寸前、まるで、来るべき時を知っていた、とでも言うように、唐突に才蔵の前に姿を見せたのだ。
 幸村に呼ばれていた才蔵は、既に繭と化した羽衣に包まれた鎌之介を百へ託し、戦場へと向かった。勿論、佐助も。その時、百は佐助と顔を合わせてはいなかった。
「そっちの坊やは初めてだね。私は百。才蔵やアナスタシアの師匠さ」
「………猿飛佐助」
「へぇ。お前さんがあの甲賀者かい」
 盃に注がれた酒を呑み、盃を伏せる。
「お前が聞きたいだろうことに、答えてやろうと思ってね」
「今更かよ?」
「今だからだよ。あの時のお前さんじゃ、頭に血が上って、まともに話を聞くとは思えなかったからね」
百は、退屈凌ぎにと持ち込み積んでいた本の山の中から、草臥れた一冊の本を出す。それは、才蔵には見せず、鎌之介には見せた、あの本だった。
「読みな。鎌之介には読ませた」
「あいつ、字読めたのかよ?」
「所々読めなかったみたいだけどね。大筋は理解できてたよ」
 渡されたその頁を才蔵が繰る。暫く、その頁を捲る音が洞窟内に響いた。そして、それを読み進めていく才蔵の顔が強張っていく。
「何だよ、これ?こんな話、聞いたことないぞ」
「お前さんに話した天人の話は、概要だ。大筋だよ。それはね、鎌之介が言うには、“自分達の話”だそうだ」
「自分達?」
「鎌之介の母親、って言うのが、天人だったらしい。そこに書いてある通りに、人間に捕まって喰われた。けど、殺されたんじゃないんだと」
「殺されてない?」
「鎌之介を逃がす為に、自害したそうだよ。自分の心の臓を、引き抜いて。鎌之介を繋いでいた縛を解くのに、血が必要だったらしい」
「ちょっと待て。じゃあ、この残った子供ってのは」
「鎌之介だね。どうも、他の子供は喰われたらしい。鎌之介だけ、髪の色が母親と同じだったから、生かされたんだと。同じように風を操れたから、生かしておけば利用できる、とでも踏んだのかね」
『俺だけが、生き残った。逃げろって言われたから、逃げた。喰われない為に、逃げたんだ』
 悲しげでもなく、鎌之介は淡々とそう、百に言った。そして、自分はもう何年生きているか分からない、とも。
「私があの子に施した墨は、確かに限界まで力を引き出すものだ。けど、あの子に内緒でもう一つ書き足しといた」
「何を?」
「限界が来たら、墨の効力が切れるように。そうすれば、命まで削ることはないだろうって思ったのさ。あの子は、そこまで望んでいたみたいだけどね」
 命を全て削るほど、能力を、力を最大限に引き出し、戦うこと。鎌之介の生きがいとも呼べるその想いを、百は台無しにしたのかもしれない。
 けれど。
「生き残った弟子が、才蔵、お前さん一人って言うのも、寂しいからねぇ」
 百が教えた子供達は、その幾人もが既に命を落としている。皆、戦国の乱世で“忍”としての命を全うしていったのだ。正式に弟子として取ったわけではないが、鎌之介を失うのは、弟子を失い続けて来た百にとって、嬉しくはないことだった。
 弟子を強くするのは、師匠の務め。それは決して、死なせる為に、命を落とさせる為に強くするわけではない。戦場において、死を予感させるその場においても尚、生き残るための強さを与えるために、弟子を取るのだ。
 “忍”としての命を全うする、その本来の意味は生き残ることだ。死ぬことではない。
「その本は、お前さんにくれてやるよ」
「師匠」
「ん?」
「鎌之介は、目を覚ますか?」
 百は、自分の後方へ視線を向け、首を左右へ振った。
「わからんよ」
 百は積んであった本を片付け始め、袋の中へ詰めていく。百の知る限り、持っている限りの本へ眼を通し、探しては見たが、天人に関する情報は、全て御伽噺だった。
「信じる他はないよ。あの時だって、ちゃあんと自分で繭から出てきたんだ。言ったろ?大人になれない蛹は死ぬんだ。あの子に生きる意志があって、死にたくないと思うなら、必ず出てくるさ」
「もう行くのかよ?」
「泰平の世になっちまえば、私らはお役御免だ。どっかでのんびり余生を過ごすよ。お前さん達も、身の振りを考えたがいい。特に、甲賀者のお前さんは、生きるのが不器用そうだ」
 才蔵の半歩後ろ程で腰を下ろしている佐助を見て百が苦笑すれば、佐助がそっぽを向く。
「………余計な世話」
「そうかい。じゃあね、才蔵」
「ああ」
 音もなく、百は洞窟の中を歩き、滝の中へと身を躍らせた。だが、沈むような水音も、地へ着地する音すらしなかった。
 才蔵は洞窟の中を歩き、轟々と音を立てて落ちる水の中へと、持っていた本を一度、二度裂き、撒いた。
 水の中へと散ったそれが、少しずつ、水中へと沈んでいく。粗悪な紙で作られた本は、溶けるようにして滝壺へと消えていった。
「とっとと眼ぇ覚ませ、鎌之介」
 こっちの腕が、鈍っちまう、と、才蔵は独り言ちた。


 大坂の陣が終結し、権力も富も、全てを徳川が握ってより此方、国の在り方は大きく変わっていた。そして、それと同時に、才蔵や佐助は生きていく術も、場所も失った。主を持たない忍は、隠れて生きていくしかない。
 戦乱の世は終わったのだ、と実感させられて、微温湯に浸りきることも出来ないまま数年、ようやく、幸村からの最後の命を果たす時が来た。
『鎌之介を頼むぞ』
 神の力を手に入れられなかった徳川。もしも、天人などと言う、人ならざるものの存在を知れば、手を出してくるかもしれない。幸村の懸念は、そこにあった。伊佐那海に対しても、あれだけ執拗に追い回していたのだ。可能性は、捨てきれない。
 だから、二人を残した。守らせる為に、生き延びる為に。
 それは、微かに秋の涼しさが混じり始めた夏の終わりだった。秋の虫の声が、寂しげに響く夜。
 相変わらずの、少し湿った、洞窟の中。徳川には、服部半蔵がいる。下手に動けば気取られると、才蔵と佐助は、鎌之介を動かすことも、居場所を変えることもしなかった。
 そんな、秋口。冬に備えて獣を狩りにでも行くべきかと考えていた、矢先だった。
 鎌之介を蔽っていた繭が、羽衣が、形を変えた。洞窟内を覆わんばかりに伸びたかと思うと収縮し、そして、鎌之介の体を纏うことなく、溶け、何処にもなかったかのように、跡形なく、消えた。
 そして、震えた瞼がゆっくりと、開いた。












2017/10/28初出