白皙の美貌、薄絹の衣、驚き怯えたかの様な双眸。 その姿を見た瞬間、男は、それを手に入れよう、と思った。 早く夕餉の材料が届かないだろうか、などと暢気なことを考えながら書物を読んでいると、唐突に上空から、二つの影が、降りてきた。 「やっと見つけたぜ、アホ師匠!」 「おや」 「やっとですかぁー疲れました」 「随分と懐かしい顔だねぇ」 眼の前に降り立った二つの影へと顔を上げれば、忍らしい、漆黒の衣を纏った体躯の上で怒ったように顔を顰めた元弟子と、弟子ではないが、幾度も見たこともある顔が呆れたように、横になった男を見下ろしている。 「ったく、ふらふらふらふらとほっつき歩きやがって!」 「探すの大変でした」 「お前さん達が一緒にいるのは珍しいねぇ。何時の間に仲良くなったの?」 「なってねぇ!」 「なってないデス」 本を閉じ、体を起こして頭を掻く。 「で、何事?」 「アナを治療して欲しい」 「アナ?どうかしたの?」 とうの昔に自分の元を巣立った弟子の名前が出てきて、首を傾げる。 「瀕死の状態で、もう何ヶ月も眼を覚まさないんですヨ。あんたじゃないと、治せないでショ?」 「それで私を探してたの?仕方がないねぇ」 本を荷物の中にしまいこむが、それでも立ち上がらずに胡坐を組む。 「もう少しで夕餉の材料が届くから、それ食べてから出発でもいいだろう?」 「は?一人じゃねぇのかよ?」 「面白い子を拾ってねぇ。阿呆だけど筋はいいよ」 その時、音を立てて木々が揺れ、叢を掻き分けるように、細い影が出てきた。 「百!これでい………」 左手に、野兎を抱えている。右手には、鎖鎌。けれど、居並ぶ三つの顔を眺めて一点で止まると、その両方を落とした。 「何だ、元気そうじゃねぇか、鎌之介」 「っ………」 声をかけられた途端、踵を返して叢の中へと飛び込んでしまう。 「あらら。逃げちゃった。何したの、才蔵?」 元弟子へと声をかければ、両の拳が震えている。 「あんの、馬鹿!」 逃げ出した姿を追って、走り出す。 「チャント捕まえてきてくださいよ。あの子だって戻ってもらわないと困るんですから」 後ろからかけられる声を無視して、木々の間へと飛び込んだ。 ―どうして、逃げているんだ。いや、何で才蔵がこんな所にいるんだ。俺はどうして、走ってるんだ。だって、強くなった。才蔵の前に立てる位、強くなったはずなのに……… それでも、走り続ける足は止まらず、枝葉を振り払う腕も無意識に動く。 今はまだ遠いが、それでも、気配が追ってきているのはよく分かる。だから、足を止められないのだ。 木々の間を抜け、山の中を駆け巡っていると言うのに、あまり疲れないのは、風の力を借りられているからだろうか。そんな風に、ふと思った瞬間、眼の前に少し開けた場所が見えた。 そこに、人が立っている。けれど、走っている足は簡単には止まらなかった。 「そこを退け!」 声に反応した相手は、頭から白い頭巾のような物を被っており、表情は見えない。しかし、何故か背筋を悪寒が下っていき、鎌之介は反射的に、風の力を右手の中へと溜めた。 軽くその頭巾を吹き飛ばしてやれば退くだろうと考えた鎌之介の行動は、いつの間にか背後に回った白い頭巾の人物によって、無へと帰した。 「止めておけ」 右手首を掴まれ、男の手が左目を覆うように、背後から伸びてきた。 「半端な封は意味がない。ならばいっそ、解いてやろう」 男の指先が、左眼を縁取るように施された刺青をなぞり、何事かを背後で呟いている。 「あっ………や、め………」 「きっと、綺麗に羽化するだろう」 右手首を掴んだ手と、刺青をなぞった指が離れていく。その途端、鎌之介の体からは力が抜けて、その場に倒れこんだ。 「な、に………うっ………」 「?妙だな………お前、まさか、持っていないのか?」 男が、倒れこんだ鎌之介の体へ手を伸ばした時、間に黒い影が割り込んだ。 「てめぇ、何者だ?」 倒れこんだ鎌之介を背後に庇うように体を滑り込ませた才蔵が、刃を抜く。 「おかしい………何故、持っていない?」 才蔵など眼中に入っていないように、更に腕を伸ばす。その腕を、才蔵が斬りつけた。 衣を裂き、皮膚を裂き、血が流れる………はずだった。しかし、男の斬りつけられた腕は、即座に皮膚が塞がり、傷など何処にもなかったかのように戻った。切り裂かれた衣だけが、才蔵に斬られた証のように、残った。手応えは、確かにあったにも関わらず、だ。 「こいつに触るんじゃねぇよ」 「………虫けらが、この私に傷をつけようと言うか!」 低い、怒りの篭った男の声と共に、男の体から放たれた風のようなものが、才蔵と鎌之介を吹き飛ばす。その直前、咄嗟に転がったままの鎌之介の体を抱え、強く地を蹴り上空へと飛び上がった才蔵は、何とかそれを逃れた。空中で一度体勢を変え、高い木の枝へと降り立つ。 男は一歩も動かず、鎌之介を抱えたままの才蔵を見上げた。そして、口元だけで、ゆっくりと笑んだ。 「まあ、いい。どうせ、そのままでは目覚めまい」 低く笑い声を零す男の姿に、異様なものを感じた才蔵は、男が無防備にも背を見せ、その姿を木々の合間へと消してしまうまで、睨み続けた。 暫く待って戻ってこないことを確認した才蔵は、ようやく木の上から降り立った。そこへと、荷物を持った百と手ぶらの半蔵がやってくる。 「何で小脇に抱えているの?」 「ちょっと見てやってくれ。様子がおかしい」 「うん?」 草の上へと鎌之介を寝かせると、百の表情が険しくなる。 「………何があったんだい?」 「わかんねぇ。俺が追いついた時にはこの状態で倒れてた。変な、白い頭巾を被った野郎が、何かしたらしい。逃がしたけど」 「刺青が、なくなっているね。私が少し弄ったけど………まさか、それが切欠かい?」 見れば、鎌之介の左目を縁取るように刻まれていたはずの刺青が、跡形もなく消え失せている。一度入れたら、簡単に消えるような代物ではないのに。 「どういうことだよ?」 「今はまだ何とも言えない………が、このままだとよくないのは確かだね。手持ちの本だと資料が乏しいし、アナも治療するんだろ?この子も一緒に里へ連れて行くしかないね」 数年ぶりの古里か………などと天を仰いでから、百の視線は気を失っているようにも見える鎌之介へと移った。 ………此処は、何処だろう?寒くもなく、熱くもなく、前も、後も、上も、下も、分からない。 ああ。でも、此処はきっと、安全なんだ。だって、暗くて、静かで、音が何にもないんだから。 そうか。今は、眠らなくちゃいけない。ゆっくりと眠って、そうして、体を……… ![]() 2016/11/26初出 |