*天理人欲-羽衣-*


 七日経っても、繭に変化は現れなかった。音もさせず、揺らぎもせず、ただ、才蔵の家の中にあった。その間に、アナスタシアの治療は順調に進み、百からは、後数日もすれば眼を覚ますだろう、と言われた。
 だが、必要とされているのはアナスタシアだけではない。繭の中にいる鎌之介は勿論、戻るつもりが今はないだろう甚八の力も、幸村は必要としている。
 もしも、このまま繭に何の変化も現れなければ、確実に、鎌之介は頭数から外さなければならないだろう。
「あーもう、ったく………」
 百からは、手を出すな、と言われている。それでも、早く何とかならないか、と思うくらいは許されるだろう。
 伊達の元にいるイザナミは、恐らく、手を緩めるつもりなどないのだろう。神話の時代の宣言通り、一日に千人の命を奪う気だ。だが、今の才蔵達にはそれを止める術はない。
 その上、そのイザナミの側には、アナスタシアを重傷に追い込んだスサノオノミコトがいる。あの男一人を止めるだけでも、六人がかりで出来なかったのだ。何としてでも、最低限、頭数は揃えたかった。
「畜生!こうしてても埒があかねぇ」
 恐らく、そろそろ繋ぎをしている佐助辺りから、何か動きがあるはずだ。そう考えて、才蔵は百の家へ足を向けることにした。出雲文字の解読も、出来る頃だろうと踏んでのことだった。


 本当に厄介なことに巻き込まれたものだ、と、百は心底から深く溜息を吐き出した。それは、自分自身は勿論のこと、弟子達も込みで、だが。
 恐らく、才蔵達の仕えている某かは、この事実を知っていて隠しているのだろう。良かれと思ってのことなのか、或いは知れば腕が鈍るとでも考えているのかは分からないが、確かに、早々に知らせていいことがあるとは思えない。判断力はあるようだ、と、見たことも無い相手へ賛辞を送っておく。
 だが、それと鎌之介の件は、全く別の話になってくる。出雲に関わるのであれば、鎌之介へ関わらせるのは、止めたほうがいいだろう。
「どう説得するかねぇ」
 馬鹿な弟子を持つと苦労する、と百は頭を掻いて、読んでいた本を閉じた。そこへ、馬鹿な弟子が、顔を出した。


 座んな、と百に促され、畳の上へ腰を下ろす。当たり前だが、茶の一つも出て来はしない。
「才蔵、お前、どうしたい?」
「何が?」
「伊佐那海って子を助けるのと、鎌之介が出てくるのを待つのと、どっちか捨てろ、って言われたら、どっちを取る?」
「どういう、ことだよ?」
「言葉のままだよ。お前さん達の仕えている主は、相当の食わせ者だ。でも、物が見えてもいるらしい。恐らく、十人揃わなければ、お前さん達は全滅だ」
「っ………それは、出雲文字が解読できたってことで、いいんだな?」
「出来たよ。兎に角、それによれば、十人揃わなければ意味がない。そして、現状お前さん達は欠けてる。だろ?」
「ああ」
「アナはもう大丈夫だが、鎌之介は多分、無理だね」
「何でだよ?」
「例え繭から出てきたところで、使い物になるかどうかは別、ってことさ」
 言いながら、百は一冊の本を才蔵の前に放り投げる。それは、数日前にも見せた、説話集だった。
「結末はどうなった?」
「天女が、天へ帰った?」
「そう。多分だけど、今のあの子は、羽衣を持っているんだ」
「は?」
「あの繭が羽衣なんじゃないか、ってね。お前さん、心当たりがあるんじゃないか?」
「心当たりって………」
「天女の羽衣は、見たことも無いような美しい、綺麗なものだそうだ。昔、一度だけだけど、お前がまだほんのガキだった頃、変な布を持っていただろ?あれ、何処で手に入れた物だい?」
 何時だったかは忘れたが、百が才蔵を鍛錬に連れ出そうとした時、家の中で、熱心に一枚の布を見ていたのを知っている。それは、そのたった一度きりだったが、男が持つには不似合いな大きさで、また、色合いも見たことの無いような、妙な色合いだったのだ。それで、百は覚えていた。
 才蔵はそれを慌てて隠していた。隠すほどの何かなのかと不審に思ったが、百は追求せずにおいた。早い春の訪れか、程度に思っていたからだ。
「答えな」
「………あれ、は、昔、山の中で………って、ちょっと待ってくれよ!まさか、あん時の子供が、あいつだってのか?」
「全部、話しな。判断するのはその後だ」
 その内容によっては、本当に、彼らが仕える某かの考えている頭数から、鎌之介は外す必要があった。


 天女は、地上では暮らせない。それは、彼女達が天上で生まれたからだ。人間が、水中では生きられないのと同じように。
 恐らく、羽衣を手に入れ、大人になれば、鎌之介は天へと帰る道を選ぶのだろう。それが、天人としての正しき道ならば。そう、百は考えていた。
 その考えを告げ、どちらかを選べ、と突きつけたが、才蔵は「考えさせてくれ」とだけ言い、出て行った。
 考えたところで簡単に答えが出ることなどないのは、理解できた。自分の弟子なのだ。悩んでいる所も、考えていることも、手に取るように分かる。
 もしも、鎌之介を“十人”と言う頭数の中に組み込むのであれば、暮らせるはずのない地上で暮らせと押し付けることになる。暮らせるはずのない場所で暮らした場合、どうなるか、眼に見えている。
 だが、十人揃わなければ、恐らく、才蔵達が止めようとしている女神が、止まることはないのだろう。今後も殺戮の限りを尽くし、この国を、黄泉の国へと変貌させる。恐らくは、それこそが彼女の望みであり、愛した男に裏切られたことへの、報復。
「どうして私の弟子達は、こうも厄介なのかねぇ」
 しかし、何よりも厄介なのは、そんな弟子達を抱えた自分だ。放り出すことも、冷たく突き放すことも出来ず、かといって全てを手助けしてやることも出来ず、中途半端にしか関われない、自分自身だった。


 暗く、湿ったその場所で、小さな、小さな呟きのような、唄声。
「………のかわいさ、かぎり、なさ………てんに、のぼれば、ほしのかず」
 響くことすら厭うように、小さく、囁くように唄われていた声は、唐突に止む。
 幾つもの足音が近づいてきて、女は細い手で我が子を抱きしめた。
「吾子………愛しい吾子」
 眠っていた子供が、女の腕の中で身動ぎをして瞼を擦る。その瞼には、数日前に無理矢理に施された、力を封じる印が、痛々しく残されている。
 泣き叫んでいた。痛いと、止めてと、けれど、自分には何も出来なかった。囚われて、繋がれて………力を失い、疲弊した我が子を抱きしめることしか出来なかった。
 だから。
「逃げて。何処までも、何処までも、そうして、いつか………幸せに、なって」
 抱きしめた子供を冷たい石の床の上へ下ろし、女は自らの手を、己の胸へと差し込み、引き抜いた。
「か、あ、さん?」
 降り注いでくる血飛沫が、ただ、ただ、温かかった。












2017/2/25初出