夜の深く暗い闇の中でも、淡く光っているような白い繭を眺めて、畳の上に才蔵は腰を下ろした。 「あれが、鎌之介だったのか………」 子供の頃、山の中で出会った子供。血まみれで、怯えたような眼をしていた。怖いものから逃げてきた、と言っていた。一体、何から逃げてきたのか。 そんな、怯えていた少女が、一体全体何をどう間違って、戦うことを好むようになったのか、到底想像がつかない。 どこかで、山賊に拾われたのだろう。だからこそ、鎌之介は山賊をしていた。そこへ至るまでに、一体何があったのか。いや、そもそも、どうしてあの時、何かがあったわけでもないのに、才蔵が塒にしていた場所から、姿を消していたのか。 名前も聞かなかったことを、後悔した。残された布を勝手に持ち帰ったことが正しかったのかどうかも、わからなかった。 けれど、決して印象に薄いわけではなかった出来事を、どうして才蔵は、すっかり忘れていたのか。 「鎌之介………」 八つ当たりしたことを、才蔵はまだ、謝ってもいない。あの時、傷ついたような、何が起きたのか分からないような、そんな、子供のような目をした鎌之介が、才蔵の中には居座っていた。 逃げなくちゃ。逃げなくちゃ。逃げなくちゃ。だって、かあさんがそう言った。血まみれで、体は動かないのに、逃げて、って。あの怖い人達から、逃げなくちゃ。 だって、そうしないと、食べられるんだから。かあさんみたいに捕まったら、駄目なんだから。 でも、何処へ?何処へ、行けばいいの? あの、優しかったお兄ちゃんは、何処だろう?あの人なら、助けてくれる? ああ、でも、あのお兄ちゃんからも逃げてしまった。だって、嫌な気配が近づいていたから。凄く、凄く、嫌な気配だった。あれから隠れるには、もっと、もっと、遠くへ行かないといけなかった。 逃げなくちゃ駄目。捕まったら駄目。幸せにならなくちゃ駄目。 幸せって、何? 『金が沢山あることだ』 『腹いっぱい飯が食えることだ』 『汗水流して働かず、奪って得ることだ』 『心が躍ることが幸せってやつだ』 『気持ちいい事が幸せだ。快楽だよ、快楽』 歪んでいく。捩れていく。狂っていく。与えられる情報が、向けられる心が、純粋な魂を汚していく。 「………おもい、だした」 そうだ。自分は、逃げていたんだ。自分を害そうとする者達から。 「殺さなくちゃ」 あの、白い男。全ての、元凶を。 ぴり、という音がして、眠りに沈みかけていた才蔵の意識は、現実に引き戻された。伏せていた顔を上げると、繭が、揺れている。 繭の真ん中、下方で何かが、動いた。そして、ぷつりと、微かな音がして、繭の一部が裂けた。 腰を浮かし、呼吸を止めるように眺めていると、その裂け目が徐々に広がり、亀裂のようになったそこから、白い、丸みを帯びたものがゆっくりと、出てきた。それが、丸められた背中だと気づいたのは、背骨が見えたからだ。次いで、肩が見える。そこから伸びた細い腕は、曲げられた足を抱えるようにしていた。そうして、ゆっくりと体全てが繭の中から出てくる。 とさりと、音を立てて畳の上に落ちた体は丸まったままで、ぴくりとも動かない。 何か、透明の膜のような物で覆われている体は、白い繭のように白く、光っているようだった。明かりもつけていない真っ暗な室内で、その繭と体だけが、仄かに、明かりを帯びている。 足を抱えていた腕が動き、指先が動く。透明な膜の中で、指先がその膜をなぞるように動いて、その一部を、爪先で破いた。 途端、中からどろりとした透明の液体が零れ出して、畳を汚していく。 「………はっ………」 呼吸をするように、声が零れる。 紅く長い髪は背の丈を超える長さにまで伸びており、心なしか手足も伸びているように才蔵には見えた。 緩慢な動作で寝返りを打つように、横向きだった体がうつ伏せになり、上半身が起こされていく。長い髪で表情は全く見えないが、兎に角も、眼を覚ましたのだ、と才蔵が胸を撫で下ろした瞬間、才蔵の体は後方の壁に激突し、跳ねた。 「ぐっ………」 畳の上に落ち、咳き込む才蔵が体を起こすと、頭を強かに畳へと打ちつけられる。眩暈を起こした頭を無理矢理に振って視線を上げると、細い体が才蔵の腰を跨ぐように、仁王立ちしていた。 「っ………お、い、げほっ」 「………殺さなくちゃ」 「え?」 「殺さなくちゃ」 言いながら、細い右腕が振り上げられる。紅い髪の合間から見える双眸は冷たく、才蔵のことなど見ていなかった。 「っの!」 足払いをかけ、簡単に体勢を崩された細い体を、腕を掴んで叩きつけないように庇いつつ、畳の上へと、両手首、両足首を自身の両手と両足を使い、縫い付ける。 「鎌之介!俺だ!才蔵だ!」 だが、細い体は必死に才蔵の腕を振り解こうと、もがく。腕を動かし、足をばたつかせて、抵抗した。 「ちっ!目ぇ、覚ませ!」 言いながら、才蔵は頭を振って、鎌之介の額に自分の額を強くぶつけた。 「がっ………この、石頭が!」 ぶつけた自分が被害を受けていては元も子もないが、それでも、鋭く重い痛みと引き換えに、鎌之介の抵抗する力は弱まった。 「ったく。おい、わかるか?」 焦点の定まっていなかった視線が、ようやく目の前にいる才蔵を認識したように、一点で止まる。 「………さ、いぞ?」 「そうだよ。わかるな?大丈夫か?」 暫くの間が空き、掴んでいた鎌之介の手首から、徐々に力が抜け、強張ったように握り締められていた拳が解けていく。 そして、何処か安堵したような、力の抜けた表情をした鎌之介の瞼がゆっくりと、閉じられた。 「………まさか、寝たのか?」 口元へ耳を寄せれば、呼吸はしている。そのことに安心した才蔵が顔を上げると、何時の間に戸を開けていたのか、にんまりと笑った半蔵が立っていた。 「あ〜お邪魔でした?もしかして、こっから本番だったり?」 言われて見下ろせば、一糸纏わぬ鎌之介の裸体を、完全に、才蔵が組み伏せている状態だった。 「んなわけあるか、ボケ!」 繭の中で成長したのだろう、膨らんだ胸元から急いで眼を離し、叫んだ。 その時。 才蔵のいる畳の間と、木戸の横に立つ半蔵との間に、土埃が立った。それは、屋根を突き破り、人が侵入してきたせいだった。 「これで、ようやく………」 濛々と上がる土埃の中から、低い男の声。それは、数日前に聞いた、あの、白い頭巾の男の声だった。 「今度こそ、私は、人を捨てられる!それを寄越せ!」 土埃の中から、腕が伸びてくる。それを避けるように、才蔵は鎌之介の体を抱えて後ろへと飛び退った。 「てめぇ………」 「それを寄越せ!それは私のものだ!」 ………醜く老いさらばえていく己を、止めなければならない。何故なら自分は、選ばれた者なのだから。そして、この子供は、生まれた瞬間から、自分の物なのだから。 2017/3/26初出 |