*天理人欲-天人-*


 お願いします。お願いします。その羽衣を返してください。その羽衣がなければ、私は天へと帰れない。私は天人です。天人は羽衣がなければ生きられないのです。お願いします、お願いします。
「返してやろう。だが、一つ、条件がある」
 お願いします。返してください。
「俺の妻になれ。そうすれば、いつか、この羽衣はお前に返してやろう」
 いつか?いつかとは、いつですか?一年後ですか?五年後ですか?
「俺の子供を産め。そうすれば返してやる」
 子供?子供が欲しいのですか?子供を産めば、返してくれますか?
「ああ。返してやるぞ」
 ………分かりました。
『馬鹿な女だ。天人は不老長寿だという。その秘密が分かるまで、羽衣を返してなどやるものか』
 男は、女が男との間に子供を産んでも、約束を守らなかった。だから、女は呪いをかけた。
『お前だけは決して、不老長寿を得られない』
 と。


 白い頭巾を被った男は、才蔵の抱えた鎌之介を掴もうとするように、もう一度腕を伸ばした。だが、その腕は、男の背後にいた半蔵の投げた苦無によって阻まれ、男の腕はだらりと垂れ下がり、血を流した。
「邪魔立てするな!それは、私のものだ」
 腕に刺さった苦無を引き抜きながら、男は叫ぶ。苦無を引き抜いたそこに、傷痕はやはり残っていなかった。
「うっわ。きっも」
 半蔵が口にして、臨戦態勢をとる。才蔵は小脇に抱えていた鎌之介を、そっと床へ下ろし、剣を構えた。
「何で、こいつがてめぇのもんなんだよ?」
「当たり前のことだ。そのために生まれてきた子供だ。そのために、あの女に産ませた最後の子供だ。私に、喰われるために」
 いい様、男が才蔵の背後に回りこむ。その速さに驚き、咄嗟に才蔵は、構えた剣を後ろへ振り上げた。その切っ先は、男の被っていた白い頭巾を切り裂き、男の容貌を露にさせた。
 その面貌は、奇怪。まるで、骨に皮が張り付き、肉など何処にもないような、水分や血液を通わせていないような、皺だらけの皮膚をしていた。そして、二つの眼球が今にも眼窩から落ちそうなほどに、ぎょろりと目立っていた。
 男は、憤怒の形相で才蔵の腹へと蹴りを入れ、壁際まで吹き飛ばした。だが、吹き飛ばされた才蔵に変わるように、今度は半蔵が男へと切りつける。それを男はかわし、更に半蔵をも吹き飛ばした。
「何の為に封を解いてやったと思っている。私に喰われるべく、成長させてやるためだ」
 半蔵の体は元いた土間まで吹き飛ばされ、二人が起き上がろうとした時には、男は二人へ背を向けていた。
「鎌之介!」
 才蔵が叫んでも、眠っている鎌之介は、ぴくりとも動かない。男は肩で笑いながら、腕を伸ばした。
「ようやくこれで、私も不老長寿だ!」
 だが、伸ばした男の腕は、空中で止まり、それ以上進まない。そして、男の喉から、苦しそうな呼吸音が漏れ出した。
 男の腕が垂れ下がり、ゆっくりとその体が宙へと浮いていく。もがくように両足をばたつかせているが、到底、畳へは届かない。
 そして、骨の砕ける音がして、男の首が、ありえない方向へと曲がり、体が畳の上へと落ちる。眼窩から落ちそうな眼球をぎょろつかせたままの男の面貌が、真っ黒な口を開けて、体とは違う場所へと落ちる。首の骨を砕かれた男の首は、そのまま千切られたのだ。二度と元へは戻れぬように。
「な、にが?」
 才蔵が呟き、体を起こすのと、半蔵が咳き込んで立ち上がるのがほぼ同時だった。
 男の体から、細い、糸のようなものが離れていく。それは、ゆっくりと意思を持ってでもいるかのように鎌之介の体に近づき、するするとその体に巻きつき、腕や足を覆っていく。それに伴って、室内に浮いていた繭の量が、減っていった。
「まさか、あれが?」
 糸は段々と太くなり、細くなりを繰り返しながら鎌之介の体を覆っていき、最後には繭の形を全て失って、鎌之介の体を纏う着物になった。
 数瞬、静寂がその場を支配した。何の物音もせず、才蔵も、半蔵も、勿論鎌之介も、動きはしなかった。そんな中、かさり、と乾いた音が立った。
 その音の元へ、才蔵と半蔵の視線が注がれる。そこには、折られ、千切れ、離れたはずの首。眼窩から零れ落ちそうな眼球を、乾ききった瞼が一度、嘗めるように覆い、開いたのだ。その現象に、二人は同時に動いた。けれど、その二人が動くよりも先に、動いた影があった。
 才蔵が、鎌之介を庇おうと足を一歩出すより、半蔵が確実に仕留めるべく刃に手をかけるより、細い影が軽やかに室内を舞い、首のない躯の上へと着地する。
 音もなく、重さも感じさせずに、白い足が躯の上で伸ばされる。
「鎌之介?」
 才蔵の声に反応も見せずに、華奢な足が軽く振り上げられ、白い衣を纏った躯を踏み抜く。踏み抜かれた躯は一度痙攣し、そして、指の爪先から灰のように、零れ始めた。
 躯から抜かれた足には血の一筋もついておらず、その足が今度は、離れて落ちた首へと近づく。
 上半身を倒して腕を伸ばすと、奇怪な首をむんずと掴み、眼の前に掲げる。それをしげしげと眺めた後、血のように赤い唇が、ゆっくりと弧を描いた。
「よう、吾に殺されるまで、生き延びた」
 鎌之介の声が、ゆったりと、首に語りかける。語りかけられた首は、答えでもするように瞬いて、眼球を左右に動かした。
「逃げたいか?じゃが、見てみよ。主の躯は既に灰。見えるであろう?」
 眼球が、忙しなく上下左右に動く。それはまるで、慄いてでもいるようだった。
「力を吾子へ渡して正解じゃったなぁ。お陰で、主の最後をこの眼で見ることが叶った」
 声など出るわけもないのに、口が幾度となく開閉される。呼吸音すらそこから漏れることはない。
「言うたであろう?不老長寿を得ることはない、と。その通りになった。のう?」
 可愛らしく、とでも言うように首を傾げながら、首を手の中から離し、畳の上へと落とす。その上へと、躯へしたように足が振り下ろされ、粉々に砕く。砕かれた首は、骨も残さずに灰になり、畳の上で静かに、風に吹かれた。
 男の首も、躯もなくなった室内で、才蔵も半蔵も、半歩すら足を動かせない。そんな中で、鎌之介の体がゆっくりと、才蔵の方へと向いた。そして、瞬きをする間もなく、眼前にその姿があった。
 風が巻き起こり、才蔵と半蔵の体を壁へと叩きつける。
「主らも、吾子の敵か?」
 風が、二人の体を壁へ押し付けるような強さで吹きつける。声を出すことも適わない。
「吾の子を喰わせはさせぬぞ、人の子よ」
 細い腕が振り上げられる。だが、その腕が振り下ろされることはなく、風も唐突に、止んだ。
「やれやれ。背中はがら空きだね」
「師匠」
 細い首筋へと落とされた、百の鋭い手刀で気を失った細い身体が、才蔵の方へと倒れこむ。節々が痛む体で何とかその身体を受けとめた。
「さて。これからのことを考えないといけないね。しっかし………お前さんの家、建て直しかねぇ」
 言われて周囲へ眼をやると、壁の一部は崩れ落ち、剥がれ、畳は捲れ上がり、部屋のあちこちに置いてあったものが散乱し、涼しげな風が吹き込む大きな穴が、屋根にぽっかりと口を開けていた。












2017/6/24初出