*天理人欲-風天-*


 飛んでいる。何にも、誰にも邪魔をされることなく、自由に、空を。
 ああ、これこそが、自分の求めていた、欲していた、幸せ。


 風が、頬を撫でたような気がして、瞼を押し上げる。たったそれだけの動作が、何故か酷く億劫だった。
「起きたかい?」
 聞こえてきた声の方へ、ゆっくりと首を巡らすと、最近ようやく見慣れた顔があった。
「百」
「意識は、はっきりしてるようだね」
 百の言っている意味が理解できず、もう一度瞼を閉じ、開けた。
 そこには、見慣れない天井。温かい布団に包まれて、自分は何をしているのか………
「ここ、何処だ?」
「ここは私の家だよ。伊賀の里のね」
「伊賀?」
「説明するのが面倒だから省くけど、才蔵から伝言だ」
「え?」
「奥州に来い、ってさ」
「………奥州、って、何処だっけ?」
「お前さん、場所知らないのかい?」
「行ったことない」
「まあ、いい。後で教えてやる。で、続きだよ。伊佐那海を止めるのに、お前の力が必要だ、ってさ」
「………馬鹿女?」
「馬鹿女なのかい?」
「奥州………行く」
 腕に力を籠めて起き上がろうとして、起き上がれないことに気づく。体に、力が入らない。
「今すぐには無理だよ」
「何で?」
「体が急に変化した上、力を使い果たしたんだ。追いついてないんだろうさ」
 言われて、初めて違和感に気づく。自分の手足は、こんなに細かったか?それに、何だか胸の辺りが………
「何だ、これ?何か、柔らかい」
「こら。揉まないの」
「揉む?………爆乳女みたいなのがついてんだけど!」
「あ〜もしかしてそれは、アナスタシアのことかい?」
「金髪女!」
「お前さんは本当に、語彙が貧困だねぇ」
 呆れ混じりに溜息を零して、湯飲みに冷めてしまった茶を注ぐ。数日眠りっぱなしだったのだ。喉も渇いているだろう。
「少しずつ話してやるよ。それから行くかどうかを決めたって、遅くはない」
 恐らく、体力が回復しさえすれば、纏う風の力で誰より早く、奥州には辿り着けるだろうから。
 その時に、戦端が開かれていなければ、の話ではあったが。


 風、羽衣、天人………言われた言葉を並べてみても、どうにも理解が出来なかった。けれど、以前と違うことは分かる。鎖鎌を使って風を起こしていた頃とは、風の扱い方が違う。軽く手を突き出すだけで、風が起こる。自分の意思で、遠くにあるものを引き寄せることも、かろうじて視界に入っている木の幹を抉ることもできる。今までは、到底出来なかったことだ。
 何故か、体が重くてまだうまく動かすことが出来ないが、これだけ風が扱えるのだ。もしかすると………
 そう考えて、鎌之介は布団を退かし、何とかその場で立ってみようとした。けれど、どうしても足に力が入らない。何日も飲まず食わずで寝ていたというから、体力が落ちているのかもしれない。けれど、と眼を閉じる。
 風が、自分を取り巻くように、流れるように、靡くように………そう想像して、眼を開ける。
「や、った!」
 立ち上がらなくても、浮くことが出来る。風が、自分を包んで、布団の上から浮かせているのだ。
「よし」
 気合を入れて、顔を上げる。すると、風がそれに呼応するかのように、鎌之介の体を天井近くまで押し上げた。
「これ、楽しいな!」
 天井近くから床板すれすれまで降下し、壁まで移動して、また上へと浮き上がる。そんなことを幾度か繰り返し、風の感覚を掴んだ鎌之介は、そのまま風の力で家の引き戸を開けて、外へと出ようとした。
「何やってんだい。病み上がりみたいなもんなのに、突然飛び出していく奴があるかい」
 途端、左手に盆を持った百に着物の衿を掴まれ、宙に浮いたままの鎌之介は、家の中へと引き戻され、布団の上へと下ろされた。
「ほら、飯だよ。そろそろ食べられるだろ」
「食べたら行っていいか?」
「奥州が何処かも知らないのに?」
「教えてくれるんだろ?」
「そりゃ、教えるがね」
 盆には、味噌汁と香の物、玄米が載っていた。それでも、繭の中で何日も眠り続け、その後再び眠りに落ちた鎌之介には、十分すぎる量だった。それを、相当腹が空いていたのか、鎌之介は一気に食べ終え、お茶を飲み干して湯のみを置いた。
 空になった茶碗を確認して、盆を横へと退けた百は、膝で鎌之介へとにじり寄る。
「鎌之介。お前さん、自分のことどこまで分かってる?」
「何だよ、急に?」
「これは、才蔵達には見せなかったんだがね」
 言いながら、百は一冊の古びた薄い本を出した。
「お前さん、文字は読めるか?」
「………少しなら」
「読んでみな」
 言われて、渋々本へ手を伸ばし、頁を繰っていく。所々読めない箇所はあったが、それでも、内容の大筋は、理解できた。そして、理解できたと同時に、鎌之介の中で、何か、大きな暗い闇のような不安が、広がった。
「どうだい?」
「ど、うって………これ、何だよ?」
「偶々、手に入れた本でね。お前さんに関わりがあるんじゃないかと思ったんだよ」
 本を百へ返し、鎌之介は一度きつく瞼を閉じて、開けた。
「なあ、百。頼みがあるんだけど」
 その瞬間、鎌之介の瞳に宿っていたのは覚悟と闘志、そして、少しの諦めだった。


 雲がかかり、月は朧に霞み、星はその姿すら見えない。そんな空を見上げ、素足で土を踏んだ鎌之介の足が浮き上がる。
 風を切る鋭い音だけを残し、一瞬の内に鎌之介の体は雲を突き抜け、朧に見えていた月が美しい白さを見せる位置まで来ていた。そこには、満天の、星空。
「そこで、見てろ。俺は、俺の好きなようにやらせてもらう」
 何処にいるとも知れない、自分と同じ血を持つであろう者達へ、宣戦布告をするように強く言い放つ。
 そして、急降下する。けれど、風は緩やかに鎌之介を包んで、地面へと下ろした。
「奥州の方角は、分かったかい?」
「何とかなる。才蔵のいる方向は、何となくわかるからな」
「で、その格好のまま行くって?」
「だってよ、この着物、脱げねぇんだよ」
 袖も裾もひらひらとした着物は、鎌之介の変化した体型に密着するように纏わりつき、膨らんだ胸元や細い腰を強調していた。
「羽衣だってんなら、離れねぇよ、これ」
 何度か引き剥がそうとしたが、全て徒労に終わっていた。
「お前さんに施したそれが、どういう結果を生むのか、分からんよ?」
「はん。一度きりの人生だ。好きにやらせてもらう。じゃあな、百!」
 言うなり、鎌之介は百ですら到底追いつけない速度で、姿を消した。
「ったく。どいつもこいつも、師匠の気持ちなんか、知りゃしない」
 百は、握っていた筆を、折った。












2017/7/22初出