*悩乱*


 ぷかり、と白煙が一つ天井へ昇っていく。
「里へ戻る?」
「ああ」
 幸村に答えて、才蔵は頷き、腰から外しておいた剣の柄を握った。
「この間、こいつが欠けちまったからな。直さないと」
「上田にも鍛冶師はおるぞ?」
「そうなんだけどな。こいつだけは里の鍛冶師でないと扱えない。腕のいいのがいるんでな」
「そうか。まあ、仕方がないな。どの位かかる?」
「一月から一月半、ってとこか」
「よかろう。ま、なるべく早く帰って来い。伊佐那海が寂しがろう」
 幸村のからかいを黙殺して、立ち上がる。
「善は急げ、って言うからな。今日にでも発つぜ」
「必要な物はあるか?」
「………路銀?」
「はっはっはっ!用意させよう。支度ができたら寄るといい」
 上田へ辿り着くまでは、幾度も路銀が底をつくような旅をしていたというから、そのような答えが出てきたのだろうが、才蔵らしい実直な答えに、幸村は笑い転げた。


 才蔵が、一月ほど伊賀へと里帰りする、という旨が勇士に通達されて、最初に悲しんだのは、伊佐那海だった。
 自分のせいで、才蔵の剣の刃が欠け、直さなければならなくなったこと、才蔵と離れなければならないことを、申し訳なく思い、寂しく思ったからだった。
 けれど、幸村から一月から一月半後に戻ってくると告げられると、ようやく安心したようで、胸を撫で下ろしていた。
 そして、もう一人、様子のおかしくなった人間がいたのだが、そのことに気づく者は、いなかった。


 心の中に、ぽっかりと、穴が開いたように感じた。それまで、しっかりと満ちていたはずのその場所に、黒い、黒い穴が、開いた。
 その穴を、冷たい風が、吹き抜けていく。
 寒い季節ではないのに、剥き出しの腹や腕や足が寒いのは、そのせいだろうか。
 食事をしても、睡眠をとっても、満ち足りない。
 最初は、その理由を、才蔵がいなくて殺し合いができないからだと思った。
 血を見ていない。悲鳴を聞いていない。あの冷たい視線を受けていない。
 それだけで、退屈だった。だから、寒いのだと思った。
 でも、それなら誰か、他の人間を相手にしたっていいはずだ。この上田の城には、手練が多くいる。才蔵と同等に戦う佐助でも、才蔵と同郷のアナスタシアでもいい。
 けれど、全くそういう気が起きない。
 一体、この空虚感は何なのか。
 それを埋める術を探そうにも、身体を動かす気が起きない。
 そのせいか、鎌之介は気づけば寝てばかりいた。
 そんな鎌之介に最初に気がついたのは甚八で、それはこともあろうに、屋敷の廊下で寝ていた鎌之介に気づかず、角を曲がった瞬間に踏みつけそうになったからだった。
 寸前で踏みとどまった甚八が、その時、鎌之介の纏う雰囲気の変化に気がついたのは、本当に偶然といってよかっただろう。
「ん〜?」
 まるで、肌から女のような色気が立ち昇っているように思えたのだ。
 鎌之介は、自分自身で男だと宣言していたし、そんなことはないと思うのだが、それでも、最初に甚八自身が女だと勘違いしたこともあるほど、彼からは男らしい匂いというのが感じられない。
「確かめてみるか」
 甚八が手を伸ばそうとしたその瞬間、鎌之介の瞼が開き、双眸が細められた。
「何してんだ、雷のおっさん」
「ん?いや、こんな所で寝てたら風邪ひくだろう、お前さん」
「ひかねぇよ」
「んー」
「何だよ?」
「お前さん、男だよな?」
「は?何だよ、急に」
 胡乱気に、鎌之介が身体を起こして後退する。
「それにしちゃ、最初に会った頃と雰囲気が違う、っつーか。なぁ?」
「なぁ?って言われても知らねぇよ、そんなこと。俺は男だって何度も言ってるだろ。ったく。どいつもこいつも!」
 勢いよく立ち上がった鎌之介が、甚八に背を向けて歩き出す。その背中を見ながら、甚八は、やっぱり妙だよなぁ、などと、暢気に考えていた。


 以前、才蔵に言われた。
『女だってこと、隠しとけ』
 と。
 勿論、鎌之介としても言いふらすつもりはなかったし、今まで男として生きてきたのだから、その生き方を変えるつもりもなかったから、言われるまでもなかった。
 女だと知られて、突然周りから態度を変えられたりするのも、面倒だからだ。
 特に、筧辺りは女を守る対象だと思っている節がある。確か、そんなようなことを伊佐那海辺りに説教しているのを、聞いたことがあるからだ。
 血が好きだ。悲鳴が好きだ。戦いが、殺しが好きだ。そんな女は、戦乱の世にあったとしても、稀にいるものではないだろう。
 その感情を否定されるというのは、鎌之介にとっては苦痛でしかない。
 好きなことを好きなようにできないのならここにいる必要はないし、また山賊に戻っても一向に構わないのだ。
 けれど、ここには、才蔵がいる。鎌之介を滾らせてくれる、才蔵が。
 だから、ここにいるのだ。
 でも、もしも、知られたら………
「いられなく、なる、のか?」
 今もぽっかりと穴が開いたままで、冷たい風が吹き続けているのに、もしもこの穴がさらに大きくなり、風が強くなったら。
「そんなん、死ぬ」
 血を見て、悲鳴を聞いて、殺しあえない日常なんて、退屈で死んでしまう。
「あー!くそっ!なんっかむかつく!」
 頭を掻き毟り、鎌之介はゆっくり寝られる場所を探そうと、歩き始めた。


 痛い。開いた穴が、痛い。
 伊佐那海が、耐え切れなくなって伊賀へ行くと言い出し、幸村が気前よく路銀を渡していたのを見て、鎌之介も追ってきた。馬鹿女と旅をするのなんて御免だったが、上田にいてもすることがないのなら、出歩いた方がましだった。
 なのに………痛い。
 伊佐那海がいつものように、才蔵の腕にしがみついている。そんなのは、才蔵が里へ旅立つ前からの、当たり前の光景だった。見慣れている光景のはずだ。
 それなのに、ぽっかりと開いた穴が、どんどん広がっていく。
 才蔵に会えて嬉しいはずだ。上田の外ならば邪魔も入りづらいだろう、殺しあえるだろうと思って、来たはずなのに………
「むかつく」
「ん?鎌之介、何か言ったか?」
「べっつに」
 わからない。わからない。わからない。
 自分にもわからないことを、誰かにわかってくれ、などと言えない。
 開いた穴を、どうやって埋めればいいのだろうか。












2012/3/11初出