*闇香*


 夜がとっぷりと更けてから、鎌之介は足音を忍ばせて、宿の一室を抜け出した。
 伊賀の里から上田まで、後丸一日歩けば到着、という場所まで来ている。他の者は夕刻に宿の湯を借りたようだが、鎌之介は借りなかった。
 男湯にも、女湯にも、他の誰かと入るなんてのは、嫌だったからだ。幸い、この宿の湯は、宿の裏手に沸いている天然の温泉だというから、時間は気にせずに入れるだろう。
 宿の人間達も、寝静まっている。今夜は月も半分しかない。明るさも乏しいから、人に見られる心配もない。
 湯殿に辿り着き、静かに木戸を引いて中に入る。そうして木戸を閉めようとした瞬間、その戸が外から押さえられた。
「お前、何してんだ?」
「っ!さいぞっ!」
「こそこそ起きだすから何かと思えば………今から風呂入る気か?」
 するりと、身体を内側へと入れてきて、才蔵が後ろ手に木戸を閉める。そして、何故かその木戸に、心張り棒をさした。
「俺は一人で入るのが好きなんだよ」
「へぇ………………俺も入るかな」
「は?」


 岩に背中をぴったりとつけて、膝を抱えるようにして肩まで浸かる。
 数日ぶりの温かい湯に、一心地つけた気がして、知らず知らず、溜息が零れる。
「おい」
「んだよ?」
「お前、何怒ってんだよ?」
「怒ってる?俺が?」
 真正面、大分離れた所から、才蔵が声をかけてくる。近づくな、と鎌之介が言ったからだが、濛々と立ち昇る湯気のせいで、輪郭しか見えない。
「怒ってんだろ。伊賀で会ってからずっとそんなじゃねぇか。いっつもうるせぇ位のお前が変に静かだしな」
「怒ってなんかねぇよ」
 怒っているわけではない。ただ、苛々しているだけだ。むかついているだけだ。
 いつまでたっても埋まらない、胸の奥の大きな穴に。
「怒ってるんじゃなきゃ、その眉間の皺は何なんだよ」
「んな顔してねぇ」
「してんだよ。ずっと。伊佐那海が怯えてんのがわかんねぇか?」
「………もう出る」
「は?今浸かり始めたばっかじゃねぇか」
 湯を掻き分けて、出ようとした鎌之介の腕を才蔵が掴むが、その手を強く振り払い、睨みつける。
「触んな!」
「あぁ?」
 あがろうと岩に手をかけた瞬間、後ろから延びてきた右腕が胸元に、左腕が腰に回される。
「なっ、おい、馬鹿、離せっ!」
 暴れようとしても、鎌之介の腕力は到底、才蔵に及ぶものではない。その上、両腕は確りと、後ろから伸びてきた腕に押さえ込まれている。
「お前、嫉妬してんのか?」
 耳元で囁かれた言葉に、何を言われたのかすぐには理解できず、鎌之介は、咄嗟に振り返った。
「は?嫉妬?」
「俺が伊佐那海の名前出したからか?」
「馬鹿女の話なんかしてねぇよ」
「は〜ん。わかった。そういうことか」
「何がだよ?」
 一人納得したような表情の才蔵に、何一つ納得できていない鎌之介は、苛々を募らせるしかない。
「別に。可愛い反応するんだな、と思っただけだ」
「可愛いとか言うな!」
「自覚が全くない、ってのも考え物だな。まあ、でも………」
 触れ慣れた肌の上へ指を這わせ、柔らかい耳朶を噛む。
「お前がそんなだから、俺も捕まっちまってるんだろうな」
 柔らかな月の光の下で、湯気で上気した肌は、才蔵の目に毒だった。


 濛々と立ち昇る湯気に、才蔵は感謝していた。
 もしも、今、鎌之介の肌が何の遮りもなく眼前にあったら、それこそ、獣の勢いで喰らいついていたに違いないからだ。
 一ヶ月というのは、短いようで長い。その間、才蔵は里で女に一切手を触れなかった。
 言い寄ってくる女はいたし、機会がなかったわけではない。けれど、どうしても、心が動かなかった。むしろ、纏わりつくような香の匂いに、閉口したことすらある。
 鎌之介の肌には、香りがない。いや、それは語弊がある。ないわけではないのだ。ただそれは、本当に微かで、抱いてみないとわからない。
 気にしないからなのだろう。男に対して媚を売ろうなど考えもしないのだろうし、男にどう見られるかもどうでもいい。あるがままの状態で問題がない、その素直さが、そのまま肌の香りになっている。だから、嫌味がない。
 その肌に、早く触れたいと思った。滅茶苦茶に抱いて、抱き潰したいと。
 なのに、そんな才蔵の心中など知らない鎌之介は、道中ずっと不機嫌で、一人で夜中に湯へ向かう始末。その上、悋気など見せられては、抱くな、という方が無理な話だった。
 白く滑らかな背中の、中程から首筋まで、一筋舌で舐めあげる。すると、敏感な身体はすぐに反応して、内へ銜えた才蔵を締めつけた。
 声を上げないように手拭いを噛んでいるせいで、いつも以上に内側が敏感だ。そのせいか、岩について身体を支えている腕も、震えている。
 湯船に足だけつけて、後ろから貫かれる姿勢は、きついのだろう。けれど、今、正面から顔を見たら、きっと自分を抑えられないだろうことが、才蔵にはわかっていた。
 そんなことをすれば、明日の朝、起きてこられないのは必至だ。出立が遅れれば、上田の者達は訝しがるだろう。それ以前に、同道している他の三人が首を傾げる。まだ、そのくらいのことを考えられる理性は、残っていた。
 楽しみは、後に残しておいてもいい………そんな風に思いながら、才蔵は鎌之介の肩口に唇を寄せて、強く白い肌を吸い上げた。


 腹部に回された腕が、気持ちがいい。それは、初めて才蔵が殺気など何もない手で、鎌之介の髪に触れた時のようだった。
「で、機嫌は直ったのかよ?」
「別に。最初から怒ってねぇよ」
 頭の上から降ってくる声に、小さく返す。才蔵の身体に凭れ掛かるのは何だか癪で、鎌之介は身体を少し前に倒していた。
 離せ、と言ったけれど、才蔵に離す気はないようで、事が終わった後から、ずっと腕に抱きかかえられているような姿勢だった。
 変だった。いつの間にか、胸にぽっかり開いていたはずの穴が、埋まっている。冷たく吹いていたはずの風も、もうない。
 あれは、何だったのだろう。
「って、おい。何してやがる?」
「んー?揉めばでかくなんねぇかな、って」
「なんねぇし、いらねぇよ、胸なんか」
 いつのまにか腹から胸元へ移動していた手を引っ叩き、ついでに腕の中から逃れる。
「逆上せる。俺は出るぞ」
「なあ」
「何だよ?」
 腕を掴んできた才蔵を見下ろすと、穏やかな双眸が、見上げてきた。
「鎌之介」
「だから、何だよ?」
「………いや、呼んでみただけだ」
「っ!………先出るぞ!」
 腕を振り払い、音を立てて湯船から上がると、急ぎ足で着物を脱ぎ捨てた所まで戻る。
 胸の奥から、今度は熱の塊が噴出してきそうだった。
「何っだよ、これ!」
 後から、後から、どんどんと噴出してくるそれに、鎌之介は、耳まで赤くなっていた。
 それを、必至で逆上せたんだ、と思い込んで、手早く着物を着込んだ。












2012/4/13初出