*刹那*


 切欠は、一体何だったか。
 そう。それは、本当に些細な刹那だった。
 その日は、穏やかな日の光が真田の地を照らしていた。風もなく、春告げ鳥の声が耳に心地良い、何の変哲もない一日。
 書を読む、と言い置いて、自室へと篭った幸村の御蔭で、珍しく自分の時間をとることの出来た六郎が、一服しようと縁側へ出た時だった。
 庭石に寄りかかり、暢気に舟を漕ぐ姿を見つけたのは。
「全く………」
 何事もない日が続いているとはいえ、上田の地が諸国から常に狙われている事実は変わらない。だというのに、幸村に選ばれたという自覚の全くない姿に、怒りを通り越して、いっそ呆れた。
 大分春めいてきたとはいえ、夕刻が近くなれば冷え込む。昼寝をしていて風邪を引きました、などという情けない姿を、勇士たる者に晒させるわけにはいかなかった。
 起こさなくてはならないだろうと、仕方なしに庭へ足を向けた六郎の足を止めたのもまた、眠りこけるその姿だった。
 微風が紅い髪を揺らした瞬間、どんな夢を見ていたものか、ふわりと、穏やかに、笑んだのだ。
 それこそ、花が綻ぶように、という表現が似合う表情で。
 その刹那、胸中に去来した感情を何と呼んでいいのか、六郎には見当もつかなかった。
 けれど、名前をつけられなかったその感情は、確りと、六郎の心の奥深くに、根を下ろしてしまっていた。


 血生臭さが、室内を覆っている。転がる屍が、三つ。それに一瞥をくれ、六郎は自室を飛び出した。
 先刻から、悲鳴や怒号のようなものが聞こえてきている。戦う力を持たない、真田家に仕える家人のものだろう。六郎は勇士だが、同時に幸村の小姓でもある。彼らを安全な場所へと避難させなければならなかった。
 夜半の攻撃に、屋敷の中は騒然としていたが、慌てふためいているのは家人ばかりで、その中に勇士の姿は見当たらない。それぞれ応戦しているのだろう。
 緊迫した夜闇の中、悲鳴や怒号を掻き消すほどの大きな爆発音が轟き、六郎は咄嗟に庭へと飛び出した。
 濛々と、煙と火が立ち昇るのは、今しがた六郎が飛び出してきた部屋の方角だ。そちらには、六郎以外の男性勇士の自室も連なっている。
 奇妙な、追い立てられるような感覚に、六郎は踵を返し、爆発のあった方角へと向かった。
 逃げ遅れたらしい数人の家人と擦れ違ったが、それ以外は静かなものだった。
 戦う音も、声もしない。ただ、火が物を燃やす臭いと煙が、広がりつつあった。
 爆発元と思しき場所へ辿り着くと、襖や屋根が吹き飛び、壁も半分以上が崩れ落ちている。爆発によって飛び散った火の粉が、彼方此方を燃やしている。
 こつりと、足先に何かがあたり、六郎が視線を下ろすと、赤々とした炎に炙られたような色を弾く、鎖鎌が落ちていた。
 ならば………と転じた視線の先で、忍装束の男が二人、瓦礫の中から細い体を引きずり出していた。
 爆発に巻き込まれたのだろう。黒く焦げた着物に、解け乱れた髪。宙へと引きずり上げられた体のあちこちに傷があり、浮いた足先からは血が滴り落ちている。
 そんな無残な体を引き上げた男二人の口元から、下卑た笑い声が零れる。
「おい、こいつまだ息してるぜ」
「そりゃぁいい。このまま連れ帰って、お楽しみの時間といこうや」
 息をしている、という言葉に、六郎は背へ隠していた武器を取り、構えた。
「その手を離しなさい」
「ちっ。新手か。他の連中は何してる!」
 言いながら、手の空いていた男が刀を構える。だが、男が向かってくるより先に、六郎は口を開き、音を忍達へぶつけた。
 眼に見える武器に油断していたのだろう。刀を手にしていた男はその場に倒れ、もう一人の男も、細い腕を掴んでいた手を離し、倒れこむ。支えを失った華奢な体もまた、瓦礫の上へと倒れこんだ。
 炎の中へと飛び込み、傷ついた体を横抱きにして、そこから離れると、大部分を失っていた屋根が耐えられなくなったのか、落ちる音が響いた。
「六郎さん!」
「才蔵」
「オッサンと伊佐那海は無事だ。他の連中も何とか………って、鎌之介?」
 走ってきたらしい才蔵が、六郎の抱えていた者に気づき、眼を見張る。
「佐助は何処です?手当てを」
「………いや。鎌之介は、俺が診る」
「才蔵?」
 剣呑な色を帯びた才蔵の視線の先を追うように、六郎は自分の抱えている鎌之介の体へ視線を落とした。
 前身頃が全て焼け落ち、傷ついた白い肌が露出している。
 その胸元には、女性しか持ちえない、膨らみがあった。


 鎌之介が女だった、という事実は才蔵から幸村へ報告されたものの、他の者へは伏せられた。
 鎌之介の怪我は、酷かった。手足の至る所に木片の欠片が刺さり、火傷も一箇所や二箇所ではなかった。
 まずは怪我を治さなければならない所へ、突然「お前は女だから、今日からは大人しくしていろ」と言われた所で、鎌之介のあの気性だ、従うわけはない。
 そうなると、その事実を知っている才蔵か六郎が面倒を見ることになる。だが、才蔵は物見や任務で、屋敷の中にはいないことが多い。必然的に、六郎が面倒を見ることが、多かった。
 その日も、六郎は水を張った桶と手拭いを持って、急遽鎌之介の部屋にされた、元空き部屋へと向かっていた。
 怪我の手当ては、一通り終わっていたものの、鎌之介はあれから眼を覚まさない。酷く血を流してもいたし、頭も打っている可能性があった。
 怪我のせいなのか発熱もしており、まずはその熱を下げるべく、地道に額を冷やす程度のことしか出来ないのが現状だった。
 眼を覚ませば、体力を戻すべく食事を取らせ、薬を飲ませることも、出来るのだが。
 襖を開けて室内へ入り、温くなってしまった水の入った桶をどけ、冷たい水の入った桶へ手拭いを浸す。
 あの時、鎌之介を瓦礫から引きずりあげた忍二人が、下卑た笑いを漏らした理由………それは、鎌之介の体を見たからなのだろう。それを思い出すと、腸が煮え繰り返りそうな怒りを覚え、崩落する屋根に押し潰されるのなど待たずに、この手で止めを刺して置くべきだったと、後悔した。
 きつく絞った手拭いを、それまで鎌之介の額に乗っていた手拭いと交換する。まだ、額も頬も、熱かった。
「んっ………」
「鎌之介?」
 睫毛が震え、ゆっくりと、瞼が押し上げられる。久しぶりに覗いた双眸が揺れていたかと思うと、唇が動いた。
「こ、しょ………う?」
「目が、覚めましたか?」
「お、れ………」
 動こうとする鎌之介の肩を軽く押さえ、汗で首筋に張り付いた髪を外してやる。
「寝ていなさい。今の貴方には休息が必要です」
「小姓の、手、冷、たくて、気持ち、いい」
 途切れ途切れの声で言い、ふにゃりと微笑むと、再び瞼を閉じて、眠りに落ちる。
 その時、六郎は、あの時胸中に去来し、根付いた感情に、漸く、気づいた。
 独占したい、という思いに。












2012/12/8初出