*懊悩*


 まさか、着物を数着着るだけのことが、こんなにも体力を消耗することだとは思わず、鎌之介は動く気力を失っていた。
 畳の冷たさが心地よく、頬を押しつける。六郎が茶を持ってくると出て行ったが、それよりも先に着物を脱ぎたかった。けれど、何枚着せられているのか、帯の結びもどうなっているのかわからない鎌之介では、脱ぐに脱げない。
「あ〜早くしろよ、小姓」
 頭にもあれこれとついていて、重い。花街で働く女は、毎日こんな格好をしているのかと思うと、うんざりした。
 がたがたと音を立てて、障子戸が開く。不審に思って、肘をついて上半身を起こすと、赤ら顔の男が立っていた。
「へっ!別嬪だなぁ」
 明らかに酒に酔っているとわかる顔。足元も覚束ないのか、障子戸に寄りかかるようにして立っている。手に持っていた盃を口元に運び、不機嫌そうに眉尻が上がった。
「酒がねぇぞ。持って来い」
「あぁ?」
 命令される覚えなどない鎌之介は立ち上がり、背中に手を回したが、勿論、其処に愛用の鎖鎌があるはずもない。此処へ連れて来られた時に、花街で武器は御法度と、取り上げられたのだ。
 酒がないことに苛立ったのか、男は盃を鎌之介へ向けて投げると、大股で近づいて腕を掴む。
「んだよ、離せ!」
「気の強い女だなぁ。そういう女を屈服させるのがたまらねぇんだよ」
 酒臭い息を吐きかけられて、鎌之介は咄嗟に足を振り上げようとしたが、慣れない着物の裾が重く、振り上げられなかった。
「離せ!」
 ならば、空いている左手で殴り飛ばせばいいのだと振り上げた腕は、突然男が姿勢を崩したせいで空振りに終わり、その上、足元をふらつかせた男が倒れこんできたせいで、背から畳へ落ちて、強かに肩を打った。
「こっの野郎!退け!」
 倒れた衝撃で裾が捌け、先程より足が自由になった鎌之介は、男の腹を蹴ってやろうと足を浮かせた。
 だが、男は浮いた鎌之介の足を掴むと、両足の間に体を割り込ませた。そして、そのままにじり寄るように、体を密着させてくる。
「重い!退け!」
 男の米神を、偶々掴んだ腰紐で殴打する。威力は弱いが、一瞬の隙を作るのには役立った。
 しかし、男の下から抜け出して後退りする鎌之介の足首を男は掴み、引きずった。
「この女ぁ!」
 引きずられた反動で振った腕が屏風に当たり、倒れる。何かが割れるような音がしたけれど、気にかけている余裕などなかった。
「大人しくしてろ!」
 酒も入り、腰紐で叩かれて逆上した男が、鎌之介の左頬を拳で殴る。
「いっ!」
 口の中に、血の味が滲んでくる。久しぶりの感覚に、頭に血が上りそうだった鎌之介の感情は、一気に急降下した。
 男が、襟の合わせ目から、手を差し入れてきたからだ。
 全身に、鳥肌が立つ。逃れようともがいても、男は鎌之介よりも体格がいい上に重い。退かそうにも、退かせなかった。
 これが、男と女の差だと言うのだろうか。自身が女だとわかってから、事ある毎に考えてきたが、これなら、知らないでいた方が良かったのではないかと、鎌之介は足をばたつかせた。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ。触るな、退け。そう心の中で叫んでも、肌の上を男の無骨な手が這い回り、震えが止まらず、声が出ない。
 初めて、誰かに助けて欲しいと、そう思った。


 震えている鎌之介を抱きしめたまま、ゆっくりと背中を撫でてやる。髪は崩れ、裾は乱れ、襟は広げられている。
「こ、しょう?」
「そうですよ」
 乱れた髪から簪を外し、頭を撫でるように梳いてやる。すると、少しずつ震えが収まってきたのか、鎌之介の体から力が抜けていった。
「すみません。少しいいですか?」
 鎌之介の体を離し、立ち上がると、六郎は部屋の中で気絶している男の襟首を掴み、容赦なく引きずって廊下に出すと、部屋を出てくる際に失敬した腰紐を使って、庭に植えられた木の幹に顔を押し付けるようにして、両腕で木を抱かせて座らせ、両腕を簡単には解けないようにきつく、腰紐で縛り上げた。
「木と抱き合うのが似合いですよ」
 本当は池の中にでも放り込んでやりたいのだが、生憎とこの店の庭には池がない。鯉の餌にしてやれないのが残念だと、六郎は鎌之介のいる部屋へと戻った。
 後ろ手に障子戸を閉め、放り出してきた湯飲みも後で片付けなければならないだろうと思いながら、呆けたままの鎌之介の前に膝をつく。
「鎌之介」
 手を伸ばして頬に触れようとすると、鎌之介の肩が大きく震えて、腰が引ける。
「嫌なら、触りません。けれど、そのままの格好では、いつまた不埒な輩が来るとも限りませんから、着替えましょう」
 努めて穏やかな口調で言えば、鎌之介が頷く。
「一人で着替えられますか?紅も落とさないといけませんし………っ!」
 体当たりするように、鎌之介が六郎の胸元へ飛び込み、押し倒した。
「か、鎌之介?」
「っ………何で………何で俺、女なんだよ」
「それは………」
 女として生まれたから、という答え以外にはないが、そう六郎が答えたからと言って、鎌之介は納得しないだろう。
「あんな奴一人あしらえないで、自分に腹が立つ!」
 握り締めた拳を震わせている鎌之介に、六郎は苦笑した。
「貴女は、素直じゃないですね、本当に」
「え?」
「怖かったんでしょう?無理をする必要はないんですよ。嫌だったら嫌だと言っていいんだし、怖かったら怖いと言っていいんです。それは、きっと女性の特権ですよ」
「っ………でも、そんなの、情けねぇ」
「私しか見ていませんから。言葉にすれば、楽になります。泣けば、すっきりしますよ」
 促すように頭を撫でると、鎌之介は六郎の胸元に顔を押し付けるようにして、静かに、涙を流し始めた。


 木に括りつけられてもがいている男を横目で見遣りながら、幸村は放ってきた六郎と鎌之介がどうしているか、夜更けになって思い出し、乱雑なまま出てきてしまった部屋へと戻った。
 部屋には小さな明かりが灯っていて、外からでもまだいるのがわかった。音を立てないよう障子戸を開いた先、明かりのすぐ側で、六郎が黙々と散らかった着物を畳み、細々としたものを片付けていた。
「まだおったのか?」
 幸村が声をかけると、六郎が人差指を口元で立て、視線を下方へ下げるのにつられて視線を下げると、暗がりで見難かったが、遊女達に着替えさせられた時の格好のままの鎌之介が、六郎の膝を枕に、眠っていた。
「やっと寝たので、静かにしてください」
「ん?」
「訳は後で話します」
 忌々しげに吐き出す六郎に、何事かあったのかと訝しんだ幸村は、音を立てないように障子戸を閉めて、室内に滑り込み、明かりの側に腰を下ろした。
「こうしておると、無垢な少女だがのぅ」
「本当に」
 珍しく優しげに微笑んだ六郎に、六郎の袴の一部を掴んで眠る鎌之介に、何だか邪魔をしてしまったような気がして、幸村は顎を掻いた。












2013/1/12初出