眼の前に、閉じられた左の瞼がある。包帯に覆われた右目は、見えない。 何で、こんなに近いんだろう? そんな風に思う間に、唇が、熱くなった。 何が起きているのか、何をされているのか分からず、ただ眼を見開いたままでいた鎌之介は、少しずつ、呼吸がしづらいことに気づき、そして、畳の上で指を握りこんだ。 ゆっくりと、閉じられていた瞼が開いて、熱さが引いていき、近すぎた顔が、離れていく。 「鎌之介?」 「え?」 「分かっていますか?」 「へ?何が?」 眼の前に、六郎の顔がある。至近距離、と言ってもいいほど、近くに。なのに、不思議と恥ずかしい気持ちが、消えていた。 完全に動きを止めて、呆然と今起きたことを整理しようとでもしているように見える鎌之介の頬に手を添えて、撫でる。 「口づけ、嫌でしたか?」 「………………口、づ………っ!?」 驚いた鎌之介が、それ以上下がりようが無いというのに、足を引くようにして、更に壁に密着しようとした。 「い、い、今、今の!」 「嫌でしたか?」 「嫌?………嫌、じゃなか、った」 言われて振り返っても、嫌だとは思えず、むしろ恥ずかしかった気持ちが消えた。なのに、今はまた恥ずかしさが湧き上がってきていて、鎌之介は必死に六郎の視線から逃げようと、自身の視線を彷徨わせていた。 「顔を見ると恥ずかしいのなら、見えないくらい近づいてしまえばいいんですよ。違いますか?」 「見えない、くらい?………それは嫌だ!」 「嫌なんですか?」 「うっ………」 微かに口角を上げて笑んだ六郎に、鎌之介はそれ以上どう返答していいのか分からず、視線を泳がせた。 「全く………貴女は、いつもいつも、世話が焼けますね」 溜息混じりに呟いた六郎の手が、あやすように鎌之介の頭を撫でる。 「ねえ、鎌之介」 「うん?」 「好きですよ」 「え?」 「貴女が、好きです。嫌ですか?」 「好、き?え?えぇ?」 水中で呼吸を求める魚のように、何度も口を開閉して言葉を探す鎌之介に、六郎は小さく吹き出した。 「可愛い反応をしないで下さい」 「かわい………」 「鎌之介は?私のこと、嫌いですか?」 「小姓の、こと………」 問われて、暫く考えた後に、まるで火を吹くように頬を赤くしてしまった鎌之介に、六郎は苦笑して、それ以上答えを要求しようとはせずに、立ち上がろうとした。 だが、細く白い指が、六郎の袴を握り締めている。 「………回」 「はい?」 「もう一回、してくれたら、わかるかも」 小さく、どうにか聞こえる大きさで、必死に紡がれた鎌之介の言葉に、六郎は手を伸ばした。 「仕方ないですね」 待ち構えるように、固くなってしまった赤く染まった頬へ手を添えて、顔を近づけた。 湯から上がったら部屋へ来なさい、と六郎に言われ、鎌之介は相変わらず髪の濡れたまま廊下を歩いていた。途中で擦れ違った伊佐那海が何か喚いていたが、無視した。 廊下から声をかけると、入りなさい、と声が聞こえて、鎌之介は襖を開けた。 部屋の中央で、まだ夜着にも着替えていない六郎が、布の包みを解いていた。 「そこへ座ってください」 六郎の眼の前を示されて腰を下ろすと、途端、溜息が聞こえてくる。 「貴女は、また髪を濡れたまま………」 「後で拭くよ」 まさか、説教するために呼ばれたのか、と身を固くした鎌之介に、だが六郎の言葉は続かなかった。 布包みの中から、小さな包みを取り出す。懐紙程度の大きさの布に包まれたものと、その倍の大きさはありそうな丸い包みを取り出して、何故か、鎌之介に背を向けるように言う。 「何で?」 「いいから、言う通りにしなさい」 鎌之介には、一々説明するより、実践した方が早いだろうと六郎は背中を向くように言うと、その手から手拭を取り上げ、両肩を覆うようにかけてやる。 そして、丸い包みを解いて、中から円い鏡を取り出すと、それを鎌之介に持たせる。 「少し前に、櫛をきちんと通した方がいい、と言ったのを覚えていますか?」 胡坐を掻いて座っている鎌之介の後ろに、膝立ちすれば、丁度胸の高さ辺りに、鎌之介の頭が来る。 「え?ああ、うん」 包みの中から、真新しい櫛を取り出して、濡れたままの紅い髪に通す。 「本当は、油をつけてから通すのがいいんですが、生憎と、店で切らしていましたから、また今度渡します」 「え?」 「貴女、櫛は一つも持っていないんじゃないですか?あれから髪が変わったようには見えなかったので」 「持ってないけど………え?何、それくれんの?」 今、六郎が丁寧に自分の髪を梳いてくれている櫛の姿を、渡された鏡に映して見ると、髪の水分を吸ったのか、少し色を濃くしたような櫛が映った。 「ええ。手入れに使う油も近々手に入りますから、そちらも差し上げます」 「でも、何で?俺、小姓から何か貰う理由がないんだけど?」 分からない、と首を傾げる鎌之介に、六郎は深々と溜息をついて、櫛を置いた。 そして、一通り櫛を入れ終えた紅い髪を指で梳いて、感触を確かめる。以前髪を拭いた時よりも断然、指通りが良かった。 「好きな女性に贈り物を、と考えるのは、男ならば当然だと思いますが?」 「へ?」 「好きですよ、って言ったでしょう?」 「言われた、けど………でも、これ、高いだろ?油だって………」 櫛が安くない買い物だということは、使わない鎌之介だって知っている。それも、手入れに使う油付でもらうのは、何だか、背中が痒くなるような感覚だった。 「気にしなくていいですよ。貴女に散々迷惑をかけたんですから、若から迷惑料を貰ってありますので」 「迷惑料?」 「ええ」 先日、幸村の思いつきのせいで鎌之介が不快な思いをしたのだから、その程度は当然だといえるだろう。ただ、それを直接鎌之介に渡してしまうと、きっと武器の手入れや新調に使ってしまうのではないか、と思った六郎が渡さずにいたのだ。 「毎日が無理なら、時々でいいですから、櫛を通してください。その方が、触り心地がいいですよ」 「ふぅん」 櫛が通った自分の髪に触れて、確かに触り心地が違う、と実感した鎌之介が、それからほぼ毎日、六郎から贈られた櫛で髪を梳るのだが、時折、それを持って六郎の部屋を訪ねては、髪を梳いてもらっていることに、他の勇士達が気づくのは、まだまだ先のことになる。 ![]() これにて完結です。お付き合いありがとうございました。 あまりない六郎×鎌之介(♀)というカップリングでしたが、いかがでしたでしょうか? 個人的には、とても楽しく書けました。 テーマは純愛だったんですけど………純愛か?六郎が鎌之介だまくらかしてるっぽいけど。まあ、いいか。 この二人は此処から先に進むには多分、相当時間かかると思います。鎌ちゃんが初心なんで。 頑張れ、六郎。 2013/1/26初出 |