*前兆*


 夕暮れ時。母親に手を引かれた子供が、公園から出て家路に着く。少しずつ、遊んでいた子供の数が減っていき、最後には、一人の女の子が残された。
 そこへ、制服を着た、高校生にも見える長身の青年が近づく。
「由利。迎えに来ましたよ」
 砂場で、熱心に何かを形作っていた女の子が声をかけられて振り返り、立ち上がる。どうやら、作っていたのは家らしい。立ち上がる時に手をついて、崩してしまった。
「おにいちゃん!」
「今日は砂遊びですか?」
「うん!」
 手を振って、スカートを手で叩き、砂を払い落とすと、右手をぐっと突き出した。
「何を持ってるんです?」
「きらきら!ひろった!」
「きらきら?」
 ぐっと突き出された小さな拳から、確かに光る銀色の何かが飛び出ている。小さな手の中に納まらなかったのだろうそれを、折られた指を広げて確認して、息を呑んだ。
「これ、此処で拾ったんですか?」
「そう!すなのなかにあったの」
「………由利は、これ、どうしたいです?」
「もってかえる」
「………じゃあ、俺が箱を作ってあげますから、その中にしまっておきましょう」
「ほんと?」
「ええ。本当です。見たい時は、俺に言って下さい。箱から出してあげますから。きらきらが汚くなったら嫌でしょう?」
「うん!」
「さ。帰りましょう」
 小さな手を取って、歩き出す。
 小さな子供のことだ。どうせ、すぐに忘れてしまうだろう。そして、その考えは、外れることなく、子供は数日すると、そのきらきらしたもののことは忘れ、別のことに夢中になっていた。
 新しいものに目移りしやすい小さな子供の心情に、これほど感謝したことはなかった。
 箱にしまいこんだそれを、決して子供の手には届かない、眼には触れない場所へとしまいこんで、鍵をかける。
 捨てようにも捨てられず、壊そうにも壊せないそれは、いつか、災いの種になるかもしれないと分かっていても、その災いを止める種にもなるかもしれず、しまいこむ以外の選択肢を、見つけられなかった。


 闇。深く、濃く、一筋の光さえ差さない、闇の中。
 前も、後も、右も、左も、上も、下もないその場所で、悲鳴と怨嗟の声が、響く。
 如何して、自分だけが………
 こんなものが、手元になければ、よかったのに………


 どさり、という物を置く音に、瞼を押し広げると、見慣れた天井が視界に入った。
 体を起こすと、薄手のタオルケットが、体の上からずり落ちた。
「ああ。起こしちゃいましたか?」
「………半蔵」
 今帰ってきたばかりらしい半蔵が、持っていた荷物を片付けている。落ちたタオルケットをソファの上へ放り投げて近づくと、頭を撫でられる。
「何だか、顔色が悪いですよ?」
「………覚えて、ねぇけど、何か、嫌な夢、見た気がする」
「いつものですか?最近、なかったのに」
「わかんねぇ」
 どんな夢を見ていたのか、思い出せない。けれど、胸の奥底で、重い何かが淀んで溜まり、呼吸を塞ごうとしているかのような、そんな錯覚を起こす。
「無理して学校行かなくてもいいですよ?」
「別に、そこまで調子悪いわけじゃねぇよ」
「なら、明日は迎えに行きますよ。仕事、早く終わる予定ですし」
「校門の正面につけんなよ、車!」
「はいはい」
 あの赤い車がいいと言ったのは確かに自分だが、高校の校門の正面につけられると、悪目立ちするばかりで、いいことなど一つもないのだ。
 明日は、授業が終わったら誰より先に教室を出よう、と、由利は心に決めた。


 鐘が鳴り響く音に眼を覚ますと、教室内が騒がしくなる。その騒がしくなった気配に、今が一体いつなのかと、顔を上げて壁にかけられた時計に眼を凝らすと、授業が全て終了した時刻を示していた。
「やばっ」
 昼食をすませ、満腹になった心地よさに暢気に寝こけていたら、完全に午後の授業の記憶がない。
 口も悪く、素行も良くない女子生徒に、教師も腫れ物を扱うような態度で、由利が授業を寝て過ごしても、起こすことはなくなっていた。
 鞄を掴んで立ち上がり、教室を飛び出す。目立つ外見の由利は、何処を歩いても視線に曝される。授業が終了し、部活へ赴く生徒、家路に着く生徒と、廊下には人が溢れているが、視線は刺々しく、悪意を持って彼女に注がれる。
 鬱陶しい………そう思っても、口に出すことはしない。面倒だからだ。そんなことに、一々反応しているほど、由利は他者に気をかけてはいない。
 それに、今は、昨日見た夢が気になっていた。
 今も、寝ている間に少し見たような気がする。いつもの、あの頃の思い出を見るのとはまた違った雰囲気の、夢。けれど、漠然としすぎていて、何を見たのかを覚えていない。それでも、ただ、息苦しく、胸苦しく、それが良くないものだ、ということは分かる。
 説明するのは、昔から苦手だった。説明するより、考えるより、先に体を動かす方が好きだった。
 なのに、どうして、今はこんなにも余計なことばかり、考えてしまうのだろう。
 才蔵は無事に高校を卒業してしまい、今は大学生だ。由利は何とか二年生に進級している。そのせいか、会える時間は以前と比べると減ってしまった。
 溜息をつきながら、運動靴に履き替えて外に出る。
 疎らに、校門へ向かう生徒の中に紛れて歩いていると、見慣れない制服の女子が、校門の所に立っている。それが、少し離れた場所にある女子高の制服だと言うことに気づくまで、そう時間はかからなかった。
 あの服を着ている知り合いは、一人しかいない。
 その瞬間、ずっしりと、体の上に重みがかかった気がした。
 ああ………そうだ。あれは、あの後何処へやったのだったか………確か、半蔵が………いや、それはあの時のことで………あの後、自分は一度もあれを眼にしてはいない筈だ。
 ………違う。何処かで、眼にしている気がする。
 おかしい。足元が、覚束ない。
「あ!鎌………っと。由利!」
 にこやかに、笑顔で手を振って、こちらに気づいて走り寄ってくる姿に、違和感などない。なのに、何故か、気持ち悪かった。
「どうしたの?顔色、悪いよ?」
 笑うな。笑うな。笑うな。
「やだ。本当に真っ青!」
 違う。此処は、彼処じゃない。此処に、闇は無い。
「っ………」
 ぐらり、と細い体が前のめりに倒れそうになるのを、横合いから伸びてきた腕が、受け止めた。
「由利。大丈夫ですか?」
「はっ………っ………」
「あ………あんた!」
「どうも。お久しぶりです。俺の事、覚えてます?」
 縋るように腕を伸ばして、自分を支える腕を、掴んだ。












2013/3/16初出