*光明*


 懐かしい、けれど、遠い感覚。
 この、重苦しい、押し潰してくるような、闇。
 そんな中にも、微かに、聞こえる声が、ある。あの頃は、到底気づくことの出来なかった、哀切の声。
 愛しい人を、置いていく悲しみ。
 愛しい人に、裏切られた苦しみ。
 愛しい人を、恨み続ける哀しみ。
 愛しい人に、愛を囁けない痛み。
 ずっと、泣いていたんだということに、自分は気づくことが出来なかった。自分の痛みと苦しみと妬みで、結局、多くの人を苦しめてしまった。
「もう、やめて」
『如何して?あの子が死ねば、貴女は幸せになるのに』
「私は、そんなこと、望んでない」
『あの時は、望んだのに?』
「それは!………っ」
『あの子が死ねば、あの子が一人になれば、自分はもう苦しまない、自分はあの人を手に入れられる………そう、思ったじゃない』
「そう………あの時は、そう思った。でも、結局、私は誰かを苦しめるだけで、手に入れることなんて、出来なかった!」
 手に入れられる、と思った。死ぬことで、才蔵を手に入れられるんだと。けれど、伊佐那海は黄泉へ堕ちる時に、才蔵の魂を見失ってしまった。
 結局、手に入れられなかったのだ。
 独りよがりな自分の想いが、多くの人を死に至らしめてしまった。そのことを、深く、強く、後悔したのだ。
 もう二度と、そんなことにはさせないと。
「お願いだから、もうやめて。寂しいなら、私が一緒にいるから」
『寂しい?私が?』
 闇が、微かに、震える。
「そう。貴女だって、愛していた人を、失った………ううん。今だって、愛しているんでしょ?だから、苦しいし、悲しいし、寂しくて、恨んでる」
『私は黄泉の神。全てを壊し、命を奪う』
「違う。貴女だって最初は違ったはず。命を慈しんでた!そういう神だった!」
『五月蝿い!』
「っ!」
『違う、違う、違う、違う、違う!私は破壊の神!全て、全て、全てを、奪うの!』
「私が一緒にいてあげる!もう、奪わなくてもいい、壊さなくてもいい!だから!少しだけ、待っていて?」
 腕を、闇の中にゆっくりと、前へと出す。其処に、居ると信じて。
『待つ?』
「そう。私は今、此岸にいるから、貴女の傍にすぐには行けないけど、必ず、行くから。その後は、ずっと、一緒にいるから」
『ずっと、一緒?』
「そうだよ。ずっと、一緒にいる。人の人生なんて、長くて百年だもの。貴女にとってみれば、ほんの瞬き程度でしょ?だから、お願い。私を、待って」
『………貴女は、私と違って、強いのね』
「強くなんて、ないよ。一緒だよ、私達は。でもね、弱いけど、強くなろうとすることは多分、出来るんだ」
 あの頃は、それに失敗してしまった。強くなろう、強くあろうと思い続けて、自分一人で抱え込めばすむのだと、そう、間違ってしまった。
 一人で強くなることも、あろうとすることも、出来ないのに。
『やっぱり、強い』
 真っ黒な闇の手が、そっと、掌に触れた。


 軽傷で済んだ由利は、一日様子見で入院をした後、経過がよければすぐにでも退院して良い、と医者に言われたが、半蔵は由利よりも余程重傷で、完治するには何ヶ月もかかると言われた。そうなれば、仕事も休まざるを得ない。由利の面倒を見ることも出来ない。暫くは、ベッドの上の住人になってしまう。だから、誰かに由利の面倒を任せなければいけないのだが、何故か、半蔵のいる病室から出て行こうとしない。
「由利。自分の病室があるんじゃないんですか?」
「ここにいる」
「俺は構わないんですけど、医者や看護士が困ると思いますよ?」
「何で?」
「まあ、一応病人は病室で、ベッドの上にいるのが基本ですから」
「俺はたいした怪我じゃない」
 そういうと、椅子を引っ張ってきて座り、擦り傷程度で済んだ固定されていない半蔵の左腕の側に体を寄せ、頭をベッドの上に乗せると、突っ伏すように顔を下へ向けた。
「由利?」
「一人だと、眠れない」
「………仕方ないですねぇ」
 こうなった由利が、梃子でも動かないことを半蔵は重々承知していた。それに、一人だと眠れないというのも、事実だろう。あんなことのあった後だ。尚更、一人で眠るのは恐ろしいのだろう。
 もう、二度と、眼を覚まさないような気すらして。
 動く左手で、柔らかい髪を梳きながら、小さな頭を撫でる。あの時のように腕を失わなくて良かった、と、現代医療の質の高さに感謝した。
 その時、病室の扉がゆっくりと開き、入ってきた姿を見咎めた半蔵の眼が眇められ、由利の頭を撫でていた手が、止まった。
「半蔵?」
 頭を軽く上げた由利が視線を動かして、静止する。喉が、小さく音を立てたが、それ以上の音は、出てこなかった。
「話、少し、いい?」
 制服姿の伊佐那海が、病室の扉を後ろ手に閉めた。


 伊佐那海が、二人の前に、奇魂を置く。それを見た由利が、肩を震わせた。
「私に、これはもう必要ない」
「だから、何です?」
「もしも、不安だって言うなら、今、眼の前で壊したって構わないの。どうすれば、一番安心できる?」
 鎌之介が、由利が、一番安心できる方法を伊佐那海はとりたかった。どれだけ言葉を尽くそうと、恐らく、不安は取り除けない。ならば、何か行動に示さなければいけない、と思ったのだ。だからこそ、奇魂と言う眼に見える物を、出した。
「何で、お前が、持ってるんだよ?」
「それは………」
 伊佐那海が視線を半蔵へ向けるが、半蔵は一切伊佐那海へ目を向けず、自分の左手を掴んだ由利の手を見ていた。伊佐那海の立つ位置からは見えないかもしれないが、その手は小刻みに、震えている。
「イザナミノミコトはもう、出てこない。出てこさせない。私がこの世にいる限りは、絶対に」
「何の確信があって言ってるんです?」
「彼女と、話をしたから」
「………由利、如何しますか?」
 大きく、肩が震えて、ようやく上げられた顔が、視線が、半蔵を見た。
「………見たくない。思い出したくない。頼むから、俺の前から、それをなくしてくれ」
「だ、そうです。それは、君の手で如何にでもしてください。それと、二度と、由利に近づかないで下さい」
「私は、友達になりたい。鎌之介とじゃなくて、今生の、由利と」
「………何でだよ。何で、お前は、そうなんだよ?あの時も、今も、自分のこと押し通して、それで、俺から、全部奪うのか?」
「奪ったりしない!」
「奪っただろ!俺は、あの時、お前に、全部奪われたんだ!」
 由利は、視界に入った空の湯飲みを掴み、伊佐那海へ投げつけた。けれど、それは伊佐那海にぶつかる前に、別の手に受け止められた。
「病室で何暴れてんだ、お前は」
 才蔵が、掴んだ湯飲みを置いて顔を上げると、由利が、泣いていた。












2018/6/23初出