*奇魂*


 突然、眼の前に現れた男に、伊佐那海は一歩、後退した。
「何で、ここに………」
「由利を迎えに来たんですよ。由利、大丈夫ですか?」
「気持ち、わりぃ」
「ちょっと!鎌之介に触んないでよ!」
「騒がないで下さいよ、五月蝿いですね」
 周囲を見れば、通り過ぎていく生徒達が何事かと、興味深そうな視線を向けてくる。
「車乗って大丈夫ですか?」
「多分、平気………」
「歩けます?って、無理そうですね。ちょっと我慢してください」
「え?うわっ!」
 突然、膝を掬われ、横抱きに抱えあげられる。その様子に、通り過ぎようとしていた女生徒の間から、羨望にも似た声が上がる。
「君、手が空いてるなら、車の扉開けてくれませんかね?」
「な、何で、私が!?」
「君のせいでしょ」
「え?」
「いいから、さっさとしてください」
 睨むように上から見下ろされ、癇に障ったが、それでも鎌之介のことが心配なことは心配で、目立つ赤い車に近づいて、後部座席の扉を開ける。
「どうも。で、君、何の用なんですか?」
「用、は別に、ないけど………鎌之介と、遊ぼうかな、って………」
「ふぅん。ま、それは今度にしてください」
 後部座席に由利を寝かせ、彼女の持っていた鞄を助手席に乗せ、運転席へ回ってエンジンをかける。そして、半蔵は伊佐那海に挨拶もせずに、車を発進させた。
 一刻でも早く、あの女から由利を引き離したかった。


 細く軽い体をベッドに横たえて、掛け布団をかけてやる。
「大丈夫ですか?」
「さっきよりは、大分まし」
「夕食は食べられそうですか?」
「多分」
「なら、準備しておきます」
「………なあ、半蔵」
「何です?」
「お前、覚えてるか?」
 布団の中へ入れた手を出し、目の前に翳して透かし見る。
「俺、あの時、奇魂、どうしたっけ?」
「あの時って、大坂ですか?」
「ああ、そう。その時」
 何処か、遠い場所を見るように手を透かし見ている顔に、表情は無い。その表情がまるで、狂って何も見ていなかったあの時に似ていて、半蔵は一瞬、息を呑んだ。
 それでも、何でも無い風を装って、上げられた手を下げさせる。
「俺が、徳川にあげちゃいました。それ以降どうなったかなんて、知りません」
「そ、か………そうだったっけ………ちょっと寝る。飯できたら、起こして」
「いいですよ。おやすみなさい」
 軽く布団の端を叩いて、部屋を出る。そして、半蔵は台所ではなく、自分の部屋へと足を向けた。
 洋服を入れているクローゼットの上、天袋の一番奥に入れている箱を取り出す。その蓋を開け、更に中に入っている一つの小さな箱を取り出す。その蓋を開けると、更に厳重に中に入れた物を隠すように、黒い布で覆っている。
 それを外すと、鈍い銀色に光る、一つの簪が出てくる。緩く弧を描いた、真ん中に大きな翡翠を嵌めた、簪だ。
 かつて、伊佐那海の髪を纏めていた、奇魂と呼ばれる簪だ。
「今更、振り回されるのは御免ですよ」
 黒い布に包んだそれを、仕事に行く際に使用している鞄の中へ放り込み、箱は元あった場所へと、戻した。


 次から次へと、制服に身を包んだ女子高生達が校門から吐き出されていく。この地域ではそれなりの名門で通っている女子校の正門前に、真っ赤なスポーツカーにも似た車を止めて、腕を組んで門を凝視している男は、不審者以外の何者でもないだろう。勿論、通り過ぎていく女子生徒達も、一体誰なのかと、不躾な視線を向けてくる。
 だが、半蔵が目当てにしているのは、一人だけだ。有給を使って、半日休みを取得してでも、話をしなければならない相手がいる。
 これ以上、彼女に関わらせない為に。
 暫く、通り過ぎる生徒達を眺めていると、楽しそうに二人の生徒と肩を並べて歩いてくる姿を見つけた。その眼前に、体を滑り込ませるように立って、にこりと笑ってやる。
「昨日は、どうも」
「………何で、此処に………?」
 隠す気も無いのか、あからさまに嫌そうな表情を、伊佐那海が示す。だが、肩を並べて歩いていた二人の少女が、甲高い声を上げ、二人の間の緊張した空気をぶち壊した。
「伊佐那海ちゃん、彼氏?」
「え〜?彼氏いたの?何で紹介してくれないの?」
「こんな奴、彼氏じゃない!」
「違います。勘違いしないで下さい」
 騒ぎ立てる女子高生二人の科白を、ほぼ同時に却下して、半蔵は乗ってきた車へ視線を向けた。
「話があるんですよ。乗ってください」
「何で、私があんたの言うこと聞かなきゃなんないのよ?」
「いいんですか?そんな態度とって?君だって知りたいんじゃないですか?どうして俺があの子と一緒にいるのか。後、簪の件も」
「………分かった。ごめん。今日は此処で」
 一緒に歩いていた少女二人に謝り、伊佐那海は大人しく半蔵に促されるまま、車に乗ろうとした。
「後部座席に座ってくださいね。助手席は、由利の席なんで」
 伊佐那海には、この男が一体何を考えているのか、欠片も理解できなかった。
 けれど、鎌之介のことも、簪のことも、どちらも気になる話で、そして、簪はずっと、伊佐那海が探していたものだった。
 自分が投げ捨てた後、何処へ行ってしまったのだろう、と。


 客の数はそれほど多くないが、それでも七割方の席は埋まっている、というような喫茶店には、クラシック音楽が五月蝿くない音量で流され、彼方此方で交わされる会話も、耳障りにはならない程度だった。
 伊佐那海の通う高等学校は名門で通っており、制服を着ている限り、あまり派手な場所へは赴けないのだ。たとえば、ファミリーレストランとか、カラオケとか。そのため、伊佐那海の方で、この店を指定した。珈琲は得意ではないが、この店は紅茶も美味しいので好んでいた。
 運ばれてきた紅茶へ、角砂糖を二つ落として、ミルクを注ぐ。半蔵の前には珈琲が置かれているが、手をつける様子はない。
 緊張しながら、紅茶をスプーンで混ぜ、眼の前に座る半蔵を見上げる。
「それで、話って何?」
「単刀直入に。由利に近づかないで下さい」
「何で、そんなことあんたに言われなきゃなんないの?」
「理由を教える必要はありません。でも、そうですね。一つあげるとするなら、俺は由利の保護者兼恋人なので、危ない目には合わせたくないんですよ」
 強く頭を殴られたかのような衝撃が走り、伊佐那海は一瞬、言葉を失った。ようやくのように搾り出した声は、震えていた。
「鎌之介の、恋人?あんたが?何、言ってるの?」
「その名前で呼ぶの、止めてくれませんか?これ以上、あの子を苦しめたくない」
「どういう、意味よ?」
「教えませんよ、君には。後、これ」
 半蔵が、鞄から取り出した黒い小さな布包みをテーブルの上に置き、その布を開くと、銀色の簪が現れる。
 それは、伊佐那海が捨てた、簪だった。












2013/3/23初出