あの時、大坂で、瀕死の才蔵を見つけて我を失い、彼を亡くす位ならば、と自ら外して捨てた簪は、あの頃と変わらない輝きを持って目の前にあり、まるで、時を止めているかのようだった。 半蔵の手が、それを伊佐那海の方へと押しやる。反射的に手を伸ばそうとして、けれど触れるのが怖くて、伊佐那海は手を引いた。 「君に返します。俺の願いとしては、これを持ってとっとと黄泉に帰ってください」 自分の物だったはずなのに、自分の物ではないような気がする簪に、ようやく手を伸ばして、翡翠の嵌められた部分に触れる。 触れたから何が起きるわけでもないのに、伊佐那海はそれを、何故か恐れていた。 それは、自分の中にある、暗い感情に直結するものだから、だろうか。 だが、それよりも、何よりも。 「何で、あんたがこれを、持ってるの?」 伊佐那海が口にしたのは、至極当然の疑問だった。 あの時、伊佐那海はこの簪を、鎌之介に向けて投げつけた。鎌之介はそれを反射的に受け取っていたはずだ。その後どうなったかは知らないが、何をどう巡れば、この簪がこの男の手に渡るのだろう。 この簪を付け狙い、勇士達を傷つけた男の手に。 「それも言う必要はありません。返しますから、壊すなり身につけるなり、ご自由に。でも、もし身につけるのなら、本当に、二度と由利の前に現れないで下さい」 「何で、よ………何で、そんなこと言われなくちゃ、なんないの?」 伊佐那海はただ、あの頃のように、話をしたいだけだ。 我が家と信じていた出雲を焼かれ、家族と信じた人を全て失い、ようやく辿り着いた上田の地で得ることの出来た、かけがえのない仲間達。この新しい生を受けてからずっと、探して、探して、探して………ようやく、出会えたのだ。 それなのに、イザナミノミコトの映し身である自分は、そんなささやかな願いすら、叶えてはいけないと言うのだろうか。 長い、沈黙。いつの間にか、冷めた紅茶の表面に、入れたミルクが浮いている。 「鬱陶しいので、泣いたりしないで下さい」 鋭く半蔵に言われ、泣き出しそうになっていた伊佐那海は、眦を両手で擦った。 「何で、近づいちゃいけないの?私だって、鎌之介や才蔵と、あの頃みたいに話したい。奇魂がなくたって、闇を呼んだりしない」 「………君、やっぱり馬鹿ですね」 「馬鹿って、何よ?」 半蔵の視線が、まるで、あの頃伊佐那海を殺しに来た時のように、冷ややかに射抜いてくる。 「自分のしたこと考えれば、友達面なんて出来ないと思いますけど?」 「それは………でも、鎌之介は、許してくれたもん」 「………由利が、許す?許す、って言ったんですか?」 「言ってないけど、でも、私のこと、分かってくれたから」 「君、本当に心底うざいですね」 「な、何よっ!」 「由利が昨日体調崩したのは、君のせいですよ。だから、近づかないでくれ、って言ってるんです」 「っ………」 「あ〜結局泣くんですか?いいですね。女は泣き落としで周りの同情引けて」 泣き出した伊佐那海に、呆れたように半蔵は溜息をつく。 「あんた、やっぱり最低」 出てきた涙を拭おうと鞄の中からハンカチを取り出し、必死に擦る。 「最低で結構です。由利以外の人間に優しくする理由がないですから」 財布を取り出し、必要なだけお金を置いて立ち上がる。 「おつりは君にあげますよ。それじゃ」 言いたいことだけ言い、出された珈琲には口をつけずに、奇魂を伊佐那海に渡した半蔵は、店を出た。 苦しい。息が、出来ない。 闇に、押し潰される。 『あんただって、同じじゃない』 違う。違う。違う。 『綺麗なふりして、心の中は真っ黒。独り占めしたい、渡したくない、って。他は全部消えちゃえ、って思ってるくせに』 そんなこと、思ってない。 『嘘つき。渡さないわ。だって、闇を照らせるのは、光だけだもの。私が闇で、あの人が光なら、絶対に離れられない運命だわ』 違う。苦しい。痛い。体が、呼吸が、心が………死んでしまう。 鍵を鍵穴に差しこみ、回そうとして違和感を覚えた半蔵は、鍵を回さずに抜いて、扉を開けた。 鍵が、かかっていない。半蔵の仕事は正直な所、不定期だ。日によっては帰りが深夜になることもある。だから、必ず鍵をかける習慣だけは、由利につけさせている。 それなのに、鍵が、開いている。 扉を開けて玄関へ入り、更に違和感は増していく。既に日は落ちているのに、何処にも明かりがついていないのだ。廊下、台所、居間、何処でもいい。必ず何処かに明かりがついているはずだった。何処へも彼女が、出かけていないのならば。 いや。鍵が開いているのだから、出かけているわけが無いのだ。 玄関の扉に鍵をかけ、靴を脱いで上がり、まず廊下の明かりを灯す。そしてそのまま居間へと足を進め、明かりをつけた。居眠りでもしているのかと思ったが、ソファにその姿はない。 ならば、と由利の部屋の扉を空け、明かりをつける。けれど、ベッドの上にもその姿がない。次いで、半蔵は自分の部屋へ足を向けて扉を開け、明かりをつけた。 半蔵のベッドの上に、小さな塊がある。布団を頭から被るようにして、小さく丸まった塊が。 ほっと、一つ息を吐いて近づき、布団の上から撫でながら、頭が何処にあるのかを探して、布団を捲くった。 「由利。大丈夫ですか?」 声をかけて、暫く待つと、ようやく瞼が押し開けられる。 「は、ん、ぞう」 「すみません。起こしましたか?」 「………さ、むい」 「由利?」 肌に、赤味がない。唇も、青ざめている。瞳だけが潤いを帯びて、今にも泣き出しそうだった。 「さむ、くて………く、るしい」 布団の上から、丸くなった体を抱きしめてやる。 「遅くなりました。一人にしてすみません」 「んっ………なあ」 「はい?」 「お前、何処も、行かない、よな?」 「由利?」 「才蔵みたいに、消えたり、しないよな?」 「いますよ。必ず貴女の所に帰ってきます。何があっても」 「そ、か………」 「由利?」 布団の間から細い腕が伸びて、半蔵の首を引き寄せるように絡みつく。 「声が、するんだ………俺を、責める」 冷たい頬を撫で、白い額に唇を落とす。 「大丈夫ですよ。傍に、いますから」 「うん」 色を失った唇に口づけ、髪を梳いて、熱を分け与えるように、強く、強く、半蔵は細い体を抱きしめた。 光と闇は、常に一対。光ある場所に闇があり、闇ある場所に光がある。 『あの人は渡さないわ。あの子もきっと、それを望んでいる。ふふふふふ…………』 それを壊すものは、容赦しない。 闇を払う風は、いらないわ。 ![]() 2013/4/13初出 |