五月蝿い、という思考と共に瞼を開けて、ゆっくりと体を起こそうとして、右腕が動かないことに気がついた。 がっしりと、細い腕が絡みつくように、縋るように半蔵の右腕を握りしめ、白い頬が寄せられている。 自分自身の右腕で彼女を抱ける喜びを知った時、半蔵の心は歓喜に打ち震えた。 左手で紅い髪を梳いて、頬をくすぐってやると、嫌そうに眉根が寄せられる。そんな表情すら可愛いと思い、一人の女に惚れこむことになろうとは、右腕を失った時には、思いもしていなかった。 そういえば、さっき五月蝿いと思ったのは何だったのか、と自身の眠りを妨げた要因を探ろうと、細い腕から自分の右腕を抜いた所で、再びその音が響き渡った。 玄関の、呼び出し音だ。幾度となく鳴らされているそれが、半蔵の眠りを妨げたのだ。 仕方なしにベッドから降りて、服を拾ってとりあえず、下だけ穿く。 欠伸を噛み殺してチェーンを外し、鍵を開けて扉を外へ押し開くと、不機嫌な表情をした才蔵が、立っていた。 「………何で上裸なんだよ?」 「開口一番、それですか?朝の挨拶とか君知らないんですか?」 「てめぇと仲良く挨拶交わすとか気持ち悪ぃよ」 「人の安眠妨害しておいてよく言いますね」 これ見よがしに欠伸をして、半開きにしていた扉を全開にし、才蔵を招く。 「あいつは?」 「まだ寝てます。朝方やっと寝ついたんで、起こさないで下さいよ」 途端、才蔵の気配が冷ややかなものに変わり、視線が鋭くなる。半蔵は苦笑しつつ、扉を閉めて鍵をかけるように言った。 「俺のせいじゃないですよ。由利が離してくれなかっただけです」 「聞いてねぇよ、んなこと」 舌打ちと共に吐き出された言葉に、少しの優越感を抱きつつ、半蔵は台所へと回った。眠気覚ましに、珈琲でも飲んだほうが良さそうだった。 この時代に生まれついて、随分と妙な色をした飲み物が沢山あることに驚いたが、慣れてしまえばどうということはない。苦味は、眠気を払ってくれる。 「でも、丁度良かったです。君に話があったんですよ」 「話?」 「ええ。由利が起きてると、中々出来ない話なんで」 「何だよ?」 「………伊佐那海のことですよ」 その名前を聞いた瞬間、才蔵の顔色が変わり、拳が握り締められた。 ずっと、気にはしていたのだ。あの後、自分と共に伊佐那海が闇に呑まれて消えたのだとしたら、彼女は、一体どうなったのだろうか、と。 もしかすると、同じこの時代に生れ落ちているのではないか、と。 そして、もしも、まだ、イザナミノミコトの闇の力に支配され、怯えているのだとしたら、光の勇士だと言われた自分に、何か出来ることがあるのだろうか、と。 鏡台に映りこむ、自分の顔。そして、眼の前に置かれた銀色の簪。 懐かしい、という感情と共に沸き起こるのは、苦しい、という感情。 この簪に纏わることは、伊佐那海にとって決して良い記憶ではない。この簪自体が悪いわけではない。むしろ、この簪のおかげで、周囲を危険に曝さずに済んでいたのだから、感謝すべきなのだろう。 けれど、これを手放した瞬間の記憶は、強い印象で、はっきりと覚えている。 だから、もう一度これを身につけることが怖かった。 彼女は、もう自分の中にはいない。闇を操る死の女神は、黄泉の国にいる。 それが、分かっているのに。 髪を束ねて、高い場所で結い、簪を止めると、其処には、あの頃いた自分がいた。 「同じ」 彼女の中に自分がいたのか。 自分の中に彼女がいたのか。 それは、今となってはもう分からない。ただの映し身であったのかもしれないし、分身だったのかもしれないし、同じ存在であったのかもしれない。 簪を外すと、長い髪が背中へと落ちる。外しても、何も起こらなかった。闇が広がることも、簪に皹が入ることも、ない。 もう、自分は、イザナミノミコトではないのだ。闇の女神などではない。 もう一度得ることの出来た、何でもない人生を、当たり前のように生きることが、出来るはずだ。 「繰り返さないもの」 才蔵も、鎌之介も、苦しめない。それは、伊佐那海がこの世に出てくる時に決めたことだった。 ドアが開いて、眠そうな顔で姿を見せた由利に、小さく苦笑する。 「おはよう」 「ん………あれ?才蔵?」 「おう」 手の甲で瞼を擦りながら近づいてきた小さな頭を撫でてやると、ふにゃりと、表情が緩む。 「半蔵は?」 「出かけた。仕事だと」 「んー………ああ。今日、夜勤か」 居間の壁に張られているカレンダーを見れば、黒いサインペンで夜勤と書かれている。ということは、早くて明日の夜までは帰ってこないということだ。時計を見れば、既に正午を回っている。 「才蔵、今日は遊べるのか?」 「ああ。土曜日だしな」 「泊まってくか?」 「ああ」 嬉しそうに笑う表情に、隠しきれない疲れが見て取れる。眼の下には薄っすらと隈が出来ており、しっかりと眠れていないことがわかった。 半蔵の懸念はこれか、と心中で呟く。 『伊佐那海と由利を、近づけないで下さい』 伊佐那海の存在が、どれだけ彼女を苦しめているのか、才蔵は知らない。知りたいとは思っても、由利が自分から話をすることは、ない。けれど、半蔵はそれを知っている。そしてそれこそが、才蔵が入り込むことの出来ない二人の縁のように思えて、悔しかった。 話を、しなければ。そう決意して、伊佐那海は月曜日の夕刻、鎌之介の通う高校の校門前で待っていた。 どうして、あの男と一緒にいるのか。どうして、あの男が奇魂を持っていたのか。彼女自身に聞いて、確認して、そして、安心したかった。 そして、伝えておかなければ。あの時にしたことを後悔しているし、もう二度と、苦しめるようなことをしたくないのだ、と。 才蔵に会いたい気持ちがあるのは、事実だけれど、それは、やはり才蔵にも、謝らなければいけない、と思うからだ。 伊佐那海は、知っていた。知っていて、嫉妬に駆られて、二人の仲を裂くような真似をしてしまったのだ。 そして、そのことを、長い、永い時間の中で、後悔し続けた。謝るということは、許してくれと乞うているようで、けれど、謝らなければ先には進めないと、そうも思う。 「………伊佐、那海?」 「え?」 名前を呼ばれて振り返れば、自分が立つ校門の柱とは逆の柱の傍に、懐かしい顔があった。 「才蔵?」 「お前、何で、ここに………」 驚いたように見開かれた双眸は、あの頃と何も変わっていなくて、伊佐那海は安心すると同時に、その傍に走り寄った。 ![]() 2013/6/9初出 |