*違和*


 細い体を背に負い、男は夜道を少し急いでいた。
「足は、大丈夫ですか?」
「痛くねぇよ」
 包帯の巻かれた左足首。そして、大きな絆創膏の張られた右の膝頭。自分がついていながら、何と言う失態か………と、朽葉は眉間に皺を寄せた。
「すみません。姫に、怪我をさせて」
「お前のせいじゃねぇだろ。つぅか、いつまで俺の事姫って呼ぶつもりだよ?」
「姫は、姫なので」
「気色悪いことぬかすな。ありゃ、お前の妄想だろうが」
 背負われた状態のまま、眼の前にある頭を軽く叩く。
「妄想ではなく、幻想ですけど」
「どっちでも大してかわんねぇよ。あんなの俺の望みじゃねぇ」
 守られたいとか、優しくされたりとか、そんな生温い感情は、欲しくなかった。
「でも、あれは、確かに貴女の願いですよ」
「あ?」
「願い、というのとは少し違いますが、私の幻術は、相手の心の奥底に潜むものに依拠する部分が大なんで、相手の知り得ない感情は組み込むことが出来ない」
「わっかんねぇよ。何だ、そりゃ?」
「ですから、姫が、優しいとか、守るとかって言う感情を知らなければ、私はそれを姫に幻術として与えることは出来ない、ということで。それを与えられたというのは、結局姫自身がそれを理解できていた、ということですよ」
「………んなん、しらねぇよ」
「姫」
「しらねぇよ。あの頃は、そんなもん、知らなかった………才蔵が………初めてだったんだよ」
「え?」
「手が、温かいとか、一緒にいると嬉しいとか、そういうの、才蔵が、初めてだった。殺すことが楽しくて、血を浴びるのが温かいことなんだって、思ってたんだ」
「姫………」
 血を浴びて笑い、傷を負って戦うことを楽しむ少女の姿は、朽葉に戦慄を与えた。こんなにも生に貪欲な生き物があるのか、と。けれど、それと同時に、幻想の中で見た少女の姿も、忘れられないものだったのだ。
「俺、女々しい」
「え〜と、姫は女性なので、女々しくてもいいと思うんですが?」
「俺が嫌なんだよ!」
 叫んでもう一度頭を引っ叩き、早く歩くように促す。
「つか、タクシー拾えよ。お前、金あんだろうが?」
「え〜と。私が背負いたいので」
「おろせ!」
「姫を歩かせるわけにはいきません!」
「家に着くまでに姫って呼んだら縊るぞ」
「黙ります」
 縊られたら背負えなくなる、と考えて、朽葉は口を閉じた。


 空は暗くなり、所々に星がある。あの頃はもっと、沢山の星が輝き、降ってくる様に思えたものだったが、何時の間に、空はこんなに寂しくなったのだろう、と、伊佐那海は視線を下げた。
「遅くなっちまったな。送ってく」
 マンションを睨みつけるように見ていた才蔵が頭を左右に振り、頭一つ分背の低い伊佐那海を見下ろした。
「うん」
 才蔵の睨みつけていたマンションを伊佐那海も見上げ、恐る恐る、と言った風に口を開く。
「ねえ、鎌之介に、何が、あったの?」
 伊佐那海の問いに、才蔵は数秒躊躇うようにした後、口を開く。
「………俺も、詳しく聞いてるわけじゃねぇよ。話したがらないしな。ただ」
「ただ?」
「鎌之介を殺したのは、半蔵だ」
「え?」
「半蔵がそう言ってたんだよ。あいつも、それを分かってて一緒にいる。殺した半蔵を憎んだりしてるわけじゃねぇ」
「そんな………そんなのって、おかしいよ。だって、あいつは………」
「分かってる」
「才蔵は、それでいいの?だって、才蔵ずっと、鎌之介のこと」
 最後までは言葉に出来ずに、伊佐那海は口篭った。
 マンションのロータリーに隣接する緑豊かな歩道を、二人の立っている方へ歩いてくる影があったからだ。点在する外灯に照らされて見えてきたのは、長身の男と、その背に背負われている少女。
 徐々に近づいてきて、その輪郭が明確になると、伊佐那海は半歩、才蔵から離れた。


 マンションのエントランスまで後数メートル、という距離で、頭を軽く叩かれて、男の足が止まる。
「………朽葉、おろせ」
「え?でも」
「おろせ」
「はい」
 強く言われて、朽葉は大人しく、背に負った由利の体を下ろし、手を貸そうとしたが、それを断られた。
 左足を引きずりながら歩く姿は何処となく危なげで、何時でも手を差し伸べられる様にと、歩調を合わせる。
 そして、朽葉は違和感を覚えた。マンションの前に立つ男女。男は見覚えがあった。だが、女の方に覚えはない。覚えはないのに、見たことがあるような気がしたのだ。
 その違和感の正体に気づいたのは、手を伸ばせば届く、という距離に近づいてからだ。
「お前、足、どうした?」
 才蔵が声をかけても、由利はその顔を見るでもなく、その横を通り抜ける。
「何でもねぇよ」
「何でもねぇことないだろ。そんな、包帯巻いて」
 エントランスに辿り着き、オートロックの部屋番号を押して、住人を呼び出す。
「半蔵。迎え来て」
『はい?今日は帰らないんじゃなかったんですか?』
「わりぃ。へました。足が痛い」
『すぐ行きます』
「おい、鎌之介!」
「………大丈夫だよ。朽葉に手当てして貰ってある」
「つったって、何があったんだよ!」
「何………伊佐那海に聞けば」
「は?何で伊佐那海?それより、お前こっち向けよ」
 怒鳴る才蔵を振り返ることなく、待つこと一分程で、半蔵が降りてきた。
「何です、その足?」
「ちょっとへましたんだよ」
「朽葉!」
「手当てはしてあります。骨折もありませんが、一応明日は病院へ行ってください」
「由利、明日は病院行きましょう」
「うえぇ?この位で?」
「この位、を甘く見ないで下さいね。行きましょう」
 細い体を、荷物を抱えるかのように軽く抱き上げて、半蔵はエントランスを奥へ入っていく。その後姿がエレベーターの中へ消えるのを見て、才蔵は朽葉を振り返った。
「おい」
「姫を、車道へ向けて突き飛ばした人がいました」
「は?突き飛ばした?」
「幸い、車通りの少ない道でしたから、すぐに助け起こしてあの程度で済みました」
 そして、朽葉の視線が、伊佐那海へ向けられる。
「あの時、姫の後ろに直前まで人はいなかった。私と姫が見たのは、貴女によく似た影でした。お心当たりは?」
 朽葉の抱いた違和感は、会ったこともない伊佐那海を、つい数刻前に見ていたからだった。












2013/7/13初出