*迷子*


 貴方は、怯え慄いて背を向けた。
 貴方は、一緒に堕ちてはくれなかった。
 貴方と一緒なら、どんな闇の底でも、耐えることが出来たのに。
 どうして、貴女ばかり、幸せになるの?


 薄暗い外灯が幾つか灯っているだけの、静かな夜の公園。人気は全くない其処で、仁王立ちした才蔵と睨みつけてくる伊佐那海に挟まれた朽葉は、溜息をついた。
「如何して私が、貴方方にこんな場所へ連れて来られなければいけないんでしょうか?」
「詳しく話を聞くために決まってんだろ」
「詳しくも何も、先程言ったことが全てなんですが?」
 呆れ混じりに溜息をついて、ベンチに腰を下ろす。ポケットから開けていない煙草を取り出し、立ったままの二人を見上げる。
「吸っても?」
 二人が顔を見合わせて頷くのを見て、朽葉は煙草の封を切り、ライターを取り出すと、一本咥え、火をつける。
「徹夜明けなので、こうでもしないと眠くなるんですよ。姫の前では吸えませんから、ようやく眠気を飛ばせます」
「姫?って、誰のこと?」
「鎌之介のことだとよ」
 訝しがる伊佐那海を無視して、煙草を一飲みした朽葉は煙を吐き出し、二人へ視線を向けた。
「私は、貴女と初対面です。そうですね?」
「そうよ。それが、何?」
「けれど、私は貴女の顔を知っていた。それは、本当につい先程、貴女を見たからだ」
「それはおかしいんだよ。こいつは俺と一緒にいたんだ」
「貴女を見たとは言いましたが、貴女自身だったとは言っていない。あれは、恐らく影のようなものでしょう」
「影、だと?如何いうことだ?」
「それは私に聞かれても分かりかねます。姫は、何かに気づいたようですが、私如きに話してなどくれません」
 短くなりつつある煙草をもう一飲みし、ポケット灰皿を取り出して、その中へと押し付ける。
「あれは、実体には見えませんでした。何せ向こう側の景色が透けていましたから。先程貴方は、彼女を伊佐那海と呼んだ。その名前が事実であれば、貴女には心当たりが十分にあるのでは?」
「お前は、こいつが何者か知ってんのか?」
「一応。触り程度は………っと、失礼」
 断りを入れながら、朽葉は胸元から携帯電話を取り出すと、通話ボタンを押して耳へ当てる。途端に、鋭い声が響いた。
『朽葉!由利を知りませんか?』
「はい?一体、なにご………」
『いなくなったんですよ!君も探すの手伝ってください』
「い、なくなった、って………あの足で、ですか?」
『ちょっと眼を離した隙にいなくなって、どの方面へ向かったのかもわかんないんです。兎に角、手伝ってください』
「わかりました」
 明らかに焦っている、珍しい半蔵の声を聞いた朽葉もまた、焦っていた。
 あの足では、到底歩けるとは思えない。引きずっていけば歩けるだろうが、その速度ではそう遠くへはいけないはずだ。なのに、少し眼を離した隙にいなくなったというのは、解せない。
「おい、何だよ?」
「………姫が、いなくなったそうです」
「はぁ?」
「時間があるなら探すのを手伝ってください。いいですか?」
「俺はかまわねぇけど、伊佐那海、お前はもう帰れ。時間も遅い」
「私も探す!」
「でもな」
「もしも、彼女が関わってるなら、私が止めなくちゃいけないんだよ、才蔵」
 真剣な伊佐那海の視線に、才蔵はそれ以上何も言わずに、軽く頭を撫でてやった。


 何所へ、行こうとしていたのだろう。
 何所へ、行きたいと願ったのだろう。
 だって、自分の周りには誰もいない。
 足元は、暗く沈む泥濘で、歩けない。
 光なんて此処には一筋も、射さない。
 強く引く闇の手が、自分を離さない。


 逃げたって、どうしようもない。あれは、走ったって逃げられる相手じゃない。それでも、痛む足を引きずって、逃げる。
『ほら、ほら、もっと頑張らないと、すぐに追いついちゃうわよ?』
 あいつと同じ声で、同じ顔で、禍々しく笑う、黒い影。
 甚振っているのか、楽しんでいるのか、その両方なのか………追いつきそうで追いつかない距離のまま、影は追いかけてくる。
「くそっ!」
 どうして今更、あんな影が現れたのか。何がきっかけだったと言うのか。如何して自分を狙うように追いかけてくるのか。
 いいや、そんなことよりも。
 おかしい。如何して、こんなに周囲は真っ暗なんだ。幾ら夜も更けた遅い時間帯だとはいえ、外へ出て来ているはずなのだから、外灯の一つや二つ、あって然るべきだ。何の明かりもない、真の暗闇なんて、おかしいじゃないか。
「何所だ、此処?」
『ふふふ』
 笑い声が、すぐ間近に聞こえ、振り返る。けれど、其処には誰もいない。
『此処は、黄泉へと至る道。私の領域』
 暗闇の中へ反響するように、声が響く。前も、後も、右も、左も、奥行きがあるのかすら分からない暗闇は、足元を覚束なくさせた。
『けれど、如何な私とて、肉体を持っている者を黄泉へは連れて行けない。だから、お前には肉体を捨ててもらわなければ』
「何、を」
『黄泉の奥、深い底へと落として、二度と生まれることの出来ぬようにしてくれる』
 暗闇の中から、同じだけの暗さの腕が現れて、細い体を強く突き飛ばす。途端、細い体はよろめいて、数歩前へと飛び出した。
「え?」
 足元には、コンクリートの上に引かれた白線。視線を上げれば、赤く光る信号機。
 何時の間にこんな所へ、と考えている耳に飛び込んできたのは、けたたましく鳴り響く自動車のクラクション。
 音のした方へ顔を向けると、必死な顔をした運転手の顔があった。
 ………ああ、そうか。俺の事、殺したいほど憎んでたのか………
「由利!」
 衝撃が、細い体を襲った。


 痛い。そう思って瞼を押し上げると、動く自分の腕が見えた。ゆっくりと体を起こそうとすると、彼方此方に小さな痛みが走るが、起き上がることは出来た。
「………生きてる」
 大きな擦り傷のついた腕からは、血が滲んでいる。それでも、生きていた。
「何で」
 顔を上げて視線を巡らすと、自動車のヘッドライトに照らされた中に、見慣れた人の姿が横たわっていた。
「う、そ」
 足が痛んで立ち上がれず、引きずるように腕を使って近づくと、真っ青な顔をした運転手が運転席側から降りてきた。携帯電話を握り締め、必死にボタンを押している。
 ようやく側へと近づき、腕を伸ばして頭に触れると、昔、何度となく手にした感触が、そこにあった。
 ぬるりと滑る、赤黒い、血。
「はん、ぞ?………あ………っ」
 悲鳴は声にならずに飲み込まれ、自分の名前を遠くから呼ぶ声を聞く間もなく、意識は閉ざされた。












2014/10/25初出