*祈念*


 眼を見開き、見慣れていたはずの天井を見上げて感じた違和に、苦笑する。ゆっくりと手を上げて頬に触れれば、一筋、そこに冷たいものが流れていた。
「ああ、そういうことですか………」
 唐突に理解し、そして、だらりと腕を下げる。胸の底から、喉の奥から零れ落ちそうな笑いを、必死に押し殺した。
「俺は、本当に、馬鹿だったんですねぇ」
 自嘲の笑いを押し殺しながら体を起こし、眼の前に自身の手を翳し、握り締めた。
 ああ。この手が、彼女を殺めたのだ、と。


 前世の記憶を持っています。俺はかつて忍として夜の闇を生き、人殺しを生業にしていました。
 なんて。そんなことを口にしようものならその瞬間、今生の両親は卒倒するだろうし、精神の異常を疑われるだろうことが分かった半蔵は、“現代”の常識に従うことにした。
 心の内側へと隠したものはおくびにも出さず、ただ黙って、聞き分けの良い子供を演じていた。演じるのは得意だ。それこそ、他人に悟られずに人の心の内へ入り込むのは、忍の技だったのだから。
 悪くない点数のテスト。教師受けもよく、友人の数もそれなり。平凡な子供を演じながら、心の内を占めていたのは、たった一人の影だった。
 会えるとは限らない。触れられるとも限らない。それでも、何故か、確信していた。
 きっと、出会えるはずだ、と。
 だって、そうでなければ、自分が記憶を取り戻した理由が、わからないではないか。
 だから、信じた。信じて、待って、いつか彼女ともう一度出会った時に、彼女がどんな風に変わっていようと、今度は殺さなくてすむように、大事にしようと思った。
 けれど、自分の前に現れた彼女は、小さな小さな女の子で、何一つあの乱世のことを覚えておらず、無邪気に慕ってきた。
 ああ。思い出さなければいい。このまま、何一つ、苦しい、嫌な思い出など思い出さずに、今生の一生を終えてくれれば、それが一番いい。
 そう、思っていた。
 思って、いたのに………


 夜の闇を引き裂くかのような、甲高い悲鳴に飛び起きた半蔵は、反射的な反応で声のした方へと走り出していた。
 隣の部屋の扉を開け、壁際のスイッチを押せば、室内に明かりが灯る。部屋の壁際に設置されたベッドの上で、飛び起きたらしい小さな体が、小刻みに震え、大きく眼を見開いて空を見ている。
「由利?」
 名前を呼んで、一歩、また一歩と近づく。甲高い悲鳴に気づいたのだろう両親も、階下から階段を駆け上がってくる音がした。
 もう少しで手が届く、という段階で、小さな体が跳ね上がり、半蔵の顔を凝視したかと思うと、拳が飛んできた。
「由利!」
 昔取った杵柄とでも言うのか、飛んできた拳を受け止めて流し、咄嗟に小さな体を抱きしめる。
「な………んで………」
「由利?」
 そこからはもう、滅茶苦茶だった。
 嫌だ、離せ、返せ、と、腕と足を振り上げて暴れ、涙を流して叫んで、夜が明けて、小さな体が疲れて眠りに落ちるまで、半蔵は腕を離さなかった。
 半蔵の両親は、絶句して室内に入ることすら出来なかった。何があったのかと、どうしたのかと、狼狽する二人に、半蔵は当然のように嘘をついた。
 きっと、両親を亡くした事故のことを急に思い出したのだろう、と。そういえば、人のいいこの親は、納得して憐憫の情を持つと、計算して。
 眠った小さな体に布団をかけて、握り潰せそうなほど小さい手を握り締めて、半蔵は瞼を閉じた。
 彼女が、眠る直前に呟いた言葉が、耳鳴りのように、頭の奥で響いている。
『才蔵………どこ?』
 頼りない、小さな、か細い声は、狂って才蔵を探し続け、死を選んでしまった過去の彼女を、思い起こさせた。


 自分が今生きている場所が、あの頃とは全く違う場所なのだと理解するまでに、相当の時間を要した。かつてと違う名前で呼ばれることに対する違和感も、大きくあったのだろう。そのせいで、何度今の名前で呼んでも、反応することがなかった。
 一年、二年と時を経ていく毎に、取り戻す記憶が増えていった。
 最初は、大坂での記憶。その次に上田での記憶。山賊時代、九度山、そして、死ぬ間際の、記憶。
 記憶を取り戻せば取り戻すだけ、彼女の心は荒れ、暴言が増え、癇癪を起こした。
 半蔵の両親は、手をつけられなかった。当然だろう。体が小さいとはいえ、かつて山賊として山を駆け、真田の勇士に名を連ねて敵を屠り続けていた少女なのだ。蘇った記憶のままに腕を振り上げ、足で蹴り上げれば、物は壊れる。
 以前のように、風を操る術を持たなかったのが、不幸中の幸いと言えたかも知れない。もしも、かつて彼女が操っていたかのような大風を起こされでもしたら、部屋の中は木端微塵だっただろう。
 そして、半蔵の両親は諦めた。所詮、自分達夫婦の子供ではないのだから、養育費だけはきちんと出して、育児は放棄した。というよりも、放棄せざるを得なかった。
 懐かない、口を利かない、出された食事を食べない、夜に歩き回る、学校へは不登校。これでは、放棄せざるを得なかった。
 結局、半蔵が彼女の面倒を見た。同じ時代の記憶を、少しでも共有している半蔵の言葉にだけは、耳を傾けたから。
 食事の用意をするのも、学校へ行かせることも、夜に歩き回ろうとするのを止めたのも半蔵だった。
 そんなことをしても、意味はないのだと。あの頃と違い、戦もなく、略奪も少なく、生きるために人を殺す必要の少ない時代で、乱世と同じように生きることは、出来ないからだ。
 それは、先に生まれた半蔵が、誰よりもよく理解していた。


 深夜十二時を回って、論文を一つ書き上げた半蔵は、部屋を出た。来年には家を出る予定で、その時には、由利も連れて行くつもりだった。
 彼女を、一人でこの家には置いておけないだろう。だから、半蔵は彼女一人くらい楽に養えるだろう給料を見込んで、医者になることにした。けれど、人を助けるのは性に合わない。人間を生かす医者は真っ平だ。そうして辿り着いた結論が、解剖医だった。死体は得意だ。
 軽く湯を浴びて風呂場を出る頃には、一時を回っており、家の中は静まり返っている。足音を立てないように廊下を歩き、階段を上がり、暗闇の中に、微かな明かりを捉えた。
 扉の下の隙間から、明かりが漏れている。由利の部屋だった。
 軽く扉を叩いて開ければ、明かりを落とした部屋の真ん中で、布団を頭から被るようにして座り込み、テレビを眺めている。
「寝なくていいんですか?」
「………………寝たく、ない」
 音を立てずに後手で扉を閉め、近づいて布団の上から頭を撫でる。
 半蔵の動きにつられるようにあげられた顔の表情は暗く、何日も眠れていないのか、眼の下の隈がひどく、すぐに顔は下を向く。
「もう、やだ」
「由利」
「もう、見たくない。思い出したく、ない」
「忘れたい、ですか?」
 小さな、柔らかい子供の手が、縋るように半蔵のシャツの袖を掴んだ。
 幼い身体を貪ることに、抵抗はなかった。












2014/11/8初出