*紅涙*


 微笑みながら、涙を流し死んでいく女の顔の、何と綺麗なことか。
 二度と、見たくない。


 何時からだろう。夢を見て魘され、まるで呼吸する術をなくしてしまったかのように、苦しげに喘ぐ夜を、時折迎えるようになったのは。
 眼を覚まし、涙を流しながら、一人は嫌だと嘆き、殺してくれと願う姿が、過去の姿と重なり、半蔵を悩ませる。
 一体、何度そんな夜を過ごしたことか。とどのつまり、自分では、彼女を本当の意味では救えないのだと、突きつけられているも同然だった。
 この先も、決して、その心を手に入れることは出来ないのだと思い知らされて、何度、その細い首を締め上げてやろうと思ったことだろう。出来るはずも、なかったけれど。
 結局、あの時も、今も、手に入れられたのは体だけで、心は傍にない。
 それでも、離れられない。手放したくないと思うのだから、重症だ。
 未成熟な細い体を、意識を失うまで抱き潰しても、満たされることがない。
 それなのに、彼女は無茶を言う。情事の後の戯れ言と言うには、重すぎる言葉を。
「なあ、半蔵」
「何です?」
「………俺より先に、死なないで」
「………わかりました」
 出来ない約束だと分かっていて、それでも頷いた。嘘でも謀りでも、彼女が安心するのなら、と。
 でも、寂しいですよ、由利。
一人、残されるのは。


 重い瞼を押し開け、視界に入ってきた見慣れない天井と、嗅ぎなれた薬品の臭いに、ああ、此処は病院か、と納得して首を動かす。
 両方の腕を動かそうとして、右手が動かないことに気づき、視線を下方へ向けると、右腕には真っ白なギプスが嵌められていた。
「まぁ、なくならなかっただけ、良しとしますかね」
 あの頃のように腕をなくすようなことにはならなかったようだと安堵し、次に足を動かしてみると、こちらは左足が動かなかった。やはり、白いギプスが嵌められている。
「はぁ。馬鹿ですね、俺も」
 あの頃と同じように体が動くのではないかと過信して、腕を伸ばした。伸ばした腕は由利の体に届いたが、自分の体を守ることは出来なかった。
 同じだけの訓練を積んでいないのだから、同じように筋肉がついているわけもない。頭の中で思い描いた通りに、体が動くわけはないのだ。
 これでは、暫く仕事は休まざるを得ないだろう。幸い、有給休暇は大量に残っている。ここぞとばかりに使わせてもらう気だった。
 ああ、そういえば、夢の中に小さい由利が出てきて可愛かったですねぇ、などと暢気なことを考えていると、病室の扉が開く音がした。ベッドの周囲はカーテンで仕切られていて、誰が入ってきたのかまでは分からない。
 だが、引きちぎるのではないかという強さでカーテンが引かれ、ベッドの上へと勢いよく飛び乗ってきた人物に、半蔵は潰れた蛙のような声を出した。
「半蔵!」
「げほっ………ちょ、由利、俺、怪我人なんで、もう少し、優しく」
「馬鹿野郎!」
「え〜」
 いきなり怒鳴られ、流石の半蔵もわけが分からない。彼女のことなら大抵分かるつもりでいるが、流石にこれは、無理だ。
 すると、腹の上に乗った由利の右腕が振り上げられ、顔を殴られる。
「由利、流石にこれは、俺も怒り………って何泣いてるんです!?」
 もう一度腕を振り上げた姿勢のまま、ぼたぼたとその眦から涙を流し始めた由利に、半蔵は左手を支えにして上半身を起こそうとした。けれど、振り上げられた腕が振り下ろされ、胸を叩いてくる。
「おま………おまえっ………怪我なんて、何でっ、してんだよっ!」
「由利………」
「俺より、先に、死な、ないって、言った!馬鹿っ!」
「………覚えてますよ。大丈夫です」
 小さな頭へ左手を伸ばし、抱え込むようにして、背中をもう一度ベッドへ預ければ、逆らわずに細い体がついてくる。
「すみません。心配、させました」
「して、ねぇ!心配なんか!」
「ええ」
「してねぇからな!」
「分かってます」
 半蔵の胸元に顔を押し付け、泣きながら震える手で病院着を握り締めているのを、心配していたと言わず、何と言うのか………それでも、追求すれば臍を曲げることが分かっている半蔵は、黙って小さな頭を撫でた。


 差し出された湯飲みを受け取り、口をつけて一息つく。
「怪我人が茶なんて飲んでいいのかよ?」
「いいんじゃないですか?置いてあるんですし、俺はただの骨折だし」
 湯飲みを置き、体を丸めるようにして半蔵の布団へ潜り込んでいる由利を見下ろす。泣いて喚いて人を殴って疲れたらしく、由利は微かに寝息を立て、半蔵のベッドを半分、占領している。
先程は泣いている顔に驚いて、観察する余裕などなかったが、よく見れば、由利自身も半蔵と似たような病院着を身につけている。その上、腕や頬、足首などに包帯や大きな絆創膏などが張られ、治療された痕が散見された。ということは、恐らくどこかに病室が用意されているはずなのだが………まあ、眼が覚めて、考えるまでもなく即座に病室を飛び出してきたのだろうと、そんな推測をしながら、泣き痕の残った白い頬をつつく。
「全く。此処に泊まる気ですかねぇ?」
 半蔵としては、添い寝してくれるなら拒否する理由は一つもない。
 才蔵が事故現場に駆けつけた時には、頭から血を流して倒れた半蔵と、その側で意識を失っている由利がいて、事故を起こした自動車の運転手が、蒼白な顔で震えていた。そうこうしている内に、静かな夜を切り裂くような音をさせて救急車が到着し、まず半蔵を収容した後、次に来た救急車が由利を病院へと運んでいった。
 取り残された才蔵は、何故か到着した警察官に事情を聞かれると言う、よく分からない巻き込まれ方をし、ようやく二人の運ばれていった病院を聞き出して、到着した途端、半蔵から茶を入れるように要求された。
「で、何でこうなったんだよ?」
「俺にもよく分かりませんよ。ただ、やっぱり、昔と同じように体が動くと思うのが間違っていましたね。失敗しました」
「当たり前だろが。つぅか、俺はてめぇが他人を庇う、って方に驚きだ」
「人聞き悪いですね。安心してください。君が溺れようが事故ろうが、助けませんから」
「頼まねぇよ」
 自分用に入れた湯飲みの茶を飲み干して、才蔵も湯飲みを置くと、椅子を引っ張り出して腰を下ろした。
「帰らないんですか?」
「あのなぁ、状況が何にもわかんねぇのに帰れるか。伊佐那海も心配してたしな」
「あの女の事はどうでもいいです」
「よくねぇよ。朽葉から聞いた。こいつを突き飛ばしたのは、伊佐那海だってよ」
「は?どういうことです?」
「それをてめぇに聞きたくてここにいるんだよ。こいつがそういうことに頭使うとは思えないからな」
「まあ、由利は考えるの苦手ですからね」
 伊佐那海と奇魂。その二つが揃ったことで何かが起きたと言うのならば、それは、揃えさせてしまった自分の失態だと、半蔵は表情に出さずに、心の中で舌打ちしつつ、傍らに眠る由利の頭を撫でた。












2015/2/21初出