*狂気*


 足首に鎖を繋がれ、女物の衣を与えられ、暗く湿った地下の牢獄へと放り込まれた。
 意識を取り戻し、正常な感覚を取り戻した鎌之介が、その状況を理解する前に、男に顎を掴まれた。
「あぁ。今は、正気デスか?」
 牢獄に用意されている幾つかの灯火に照らされた男の顔が、幾度か見たことのある顔だと気づいた。
「服部、半蔵?」
「そうです。正気ですね」
「正気?俺、何、して………」
 橙色の明かりに照らされた男の顔、その口元が奇妙に歪み、顎を掴んでいた腕が、鎌之介の着物の裾へと侵入してきた。
「なっ………おい、何す!」
 ぬるり、と男の指先が太股を撫で上げる感触が、奇妙だった。
 何か、濡れている。
「わかります?」
「な、なに………」
「つい一刻程前まで、俺と貴女は繋がってたんデスよ」
「え?」
「初めてだったんでしょう?才蔵には、抱いてもらわなかったんですか?」
「っ!才蔵!才蔵は?」
「こんな状況でもあの男の事ですか?才蔵は死にましたよ。貴女がそう言ったんでしょ」
「死………んだ?」
 言われて、鎌之介は何があったのかを思い出し、その後の記憶が全くないことに気づいて、立ち上がろうとした。
 だが、腿から足首へと伝うものの感触に、気持ち悪くなってその場に座り込む。
「お、俺に、何、したんだよ?」
「ですから、繋がったんです。真田も滅びましたし、勇士も残ってないでしょう。安心してください。貴女のことは、俺が飼ってあげますから」
「飼、う?」
 そこで、初めて足首に重い鎖が繋がれていることに気づき、腕を伸ばして引くと、その先が牢獄の隅に繋がれ、四角く囲われたそこからは逃げられない長さになっていた。
「もう一度、しましょう?」
「は?」
「正気の貴女も、抱いてみたい」
 男の片腕が伸びて、鎌之介の腰を引き寄せる。何をされるのかようやく理解した鎌之介の喉からは、引き攣ったような微かな音が漏れるだけだった。


 身支度を整えて立ち上がった男の足首を掴み、顔を上げる。
「何デス?」
 男の尽きることの無い欲を受け止めて、腕一本動かすのが、やっとだった。
「殺、して………」
「はい?」
 からからに渇いた喉から、搾り出すように声を吐き出す。
「殺して、くれよ」
「駄目です」
 ようやく吐き出せた懇願は、簡単に斬り捨てられ、男は腰を屈めて顔を近づけてきた。
「俺が飽きたら、殺してあげます」
 ならば………と、鎌之介が舌を噛み切ろうと口を少し開けると、男の指が無遠慮に口内へ突っ込まれた。
「駄目ですよ。死なせません。それに、狂っている間は、それもできないでしょ?」
 狂う、と言われて、鎌之介は此処までの記憶が全くないことに気がついた。
 幾ら混乱していたとは言え、こんな牢獄に放り込まれるまで一度も気がつかないと言うのは、おかしい。
 そして、男の言う意味を理解して、男の足首を掴んでいた腕から、力を抜いた。
 狂いたい。狂ってしまって、全てを忘れたい………そう、願ってしまったのだ。そしてそれを、鎌之介は受け入れた。
 覚えていないのは、そのせいだ。何もかもを放棄して、今更正気に戻って………だったらもう、狂ってしまっていた方が、いい。
「才、蔵………」
「………まだ、あの男が恋しいデスか?」
「わかん、ねぇ………でも、会いたい」
 少しだけ、降ってきた男の声が優しいような気がしたけれど、一つ涙を零して眼を閉じた鎌之介は、其処から先をまた忘れてしまおうと、意識を手放した。


 鎌之介が意識を取り戻し、瞼を開けた時に見たのは、自分を片腕で抱きしめて眠る、男の姿だった。
 その時には、寝かされているのが暗く湿った牢獄ではなく、畳敷きの小さな部屋で、敷布の上だった。
 足首には、相変わらず鎖が繋がれている。その足首が痛いのは、嵌められた足枷が擦れたせいだとわかっていた。
 時折、鎌之介は正気を取り戻し、その都度状況は違った。眼の前に膳が置いてあった日もあれば、男に抱かれている最中に眼を覚ますこともあった。
 けれど、場所が変わってから正気を取り戻したのは、初めてだった。
 腕を伸ばして、男の頬に触れてみる。そのまま指先を滑らせて、首筋、肩、そしてなくなった右腕の先へ触れてみる。肩より少し先から、右腕はない。傷口を覆うためなのだろう、黒い布が肩口まで縛り付けてあった。
「何、してるんデス?」
「起きてっ!」
「触らないで下さい、そこは」
「あ、悪い」
 会話が成立するのは、鎌之介が正気でいる証拠なのだと、半蔵もわかっているようで、一々正気なのか狂っている時なのかは、確認しない。
「お前、何で俺とこういう事するんだよ?」
 鎌之介は、正直自分の体が女らしいとは微塵も思っていない。こんな貧相な体を好んで抱く男の気が、しれなかった。
「好きなんで」
「え?」
「貴女の身体が好きなんですよ。他に理由なんてありません」
「そ、うか………」
 こんな体でも、好いてくれる男がいるのかと、鎌之介が瞼を閉じると、男の大きな手がゆっくりと、鎌之介の頭を撫でた。
 男の手は、少しだけ才蔵に似ていて、そして、温かかった。


 次に鎌之介が正気を取り戻した時は、手元に箸と碗を持っていた。急に視界が開けたことに驚いてどちらも取り落とした鎌之介は、割れた碗から零れ落ちた米を眺めて、割れた欠片を一つ拾い上げた。
「これ、なら………」
 此処に、武器はない。鎌之介が自害に使えそうな道具は、悉く半蔵の手によって退けられていたからだ。
 だが、割れた陶磁器の欠片ならば、鋭利だろうと、ぐっと掌の中に握り締めると、案の定、傷ついたそこから、血が滲み出す。
 口元に笑みを刷き、鎌之介は欠片を首筋へ押し当てて、強く、引いた。


 妙な顔をしている、と思った。まるで、自分が死に逝くことを、嘆いているような。
「な、あ、とどめ、刺してくれよ」
 血が流れているのがわかる。けれど、致命傷になりそうにはなかった。手当てすれば助かりそうな、傷だ。だから………
「殺して、くれよ、半蔵」
 この男なら………才蔵と互角に戦ったこの男に殺されるのならば、構わないと思えた。
「そんなに、死にたいんデスか?」
「あぁ………殺、して」
「………わかりました」
 男の手が刀を握り、その刃先が胸の上に押し当てられる。ゆっくりと貫かれる感触に、鎌之介は微笑んだ。
「ありが、とう」
 これで、才蔵の所に、逝ける。そう思って瞼を閉じた鎌之介は、半蔵がその後、まるで殉じるように、自身へ刃を向けたことを、幾百年を過ぎてから、知った。












2012/11/3初出