*功名*


 階段から落ちた、と連絡を受けた半蔵が、病院へ駆けつけた時には、細い体は、病室のベッドに横たわっていた。
 頭に巻かれた白い包帯。右頬には大きな脱脂綿。右腕にも包帯が巻かれている。右側から落ちて衝撃を受けたのだろうと、容易にわかる姿だった。
「それで、どうして君が此処にいるんですかね?」
 ベッドの傍らの椅子に、落ち込んだ様子の才蔵の姿を見つけて、睨みつける。
「………悪い」
「何がですか?俺に謝らなければいけない何かを、由利にした、ってことでいいんですかね?」
 落ち込んでいようと暗くなっていようと、そんなことは、どうでもいい。才蔵の都合など鑑みる必要性を、半蔵は持ち合わせていなかった。
「歯ぁ、食いしばってください」
 言うと同時に、振り上げた拳を容赦なく、才蔵の左頬に打ち込んでやる。途端、力なく椅子に座り込んでいた体は吹き飛び、木製のロッカーに背中から突っ込んだ。
「謝るなら、この子に謝るのが筋でしょ」
 今のことも、昔のことも。謝りたいと思っているのなら、その気持ちは全て、由利へ向けるべきだ。
「帰ってくれませんかね?今の君が、この子に顔合わせて、何言うつもりなんです?」
 体を起こし、倒れた椅子を元へ戻して、殴られた頬を摩った才蔵へ、白いドアを示してやる。
「………また、来る」
 小さく呟いた才蔵の声を無視して、半蔵はベッドに近づいた。


 背筋が、凍った。細い体が、宙を舞った瞬間。掴めるはずだ、と思って伸ばした腕は、制服の一部すら、掴むことが出来なかった。
 踊り場へ、吸い込まれるように落ちていく体を見て、才蔵の脳裏に一瞬浮かんだのは、黒い、闇だった。
 全てを飲み込む、黒い闇。そして、微かなおぞましい、笑い声。
 あれは、一体何だ?
 それを考える間もなく、反射的に走り出した体が、踊り場へ到着した時には、紅い髪の間から、尚赤い血が、流れ出していた。
 細い体を抱き上げて、音を聞きつけて駆けつけたらしい教師に、才蔵は敬語を使うことなどすっかり忘れて、「救急車!」と叫んでいた。きっと、明日辺り、何があったのかを聞かれることだろう。
 けれど、そんなことよりも、治療の間も、その後も、一度も眼を覚まさなかった鎌之介の容態が、気になる。学校へなど、行っている場合ではなかった。
「鎌之介………」
 もっと強く、振りほどけない位に、あの手を握っていれば………


 呼んでいる。泣いているように、叫ぶように、よく聞き慣れた声が。
「………う、る………せ」
「才蔵!」
 ああ。そうだ。この顔と、この声は………
「………佐那海?」
「うん!うん!才蔵、待ってて!すぐに助けてあげるから!」
 助け?一体、何を助けると言うんだ。俺はもう、死んでいるんじゃないのか?
「おい、伊佐那海さっさとしろ!敵が来る」
 今の、声は………何処に、いるんだ?
「ねえ、才蔵。私、才蔵のこと大好き」
「伊佐那海!」
 見えない。お前の顔が。何処だ?
「才蔵は、今まで、沢山、沢山、私を助けてくれた。だから、今度は、私が才蔵を助ける番だからね」
 ああ。泣くな。お前が泣くと、闇が………
「伊佐、那海?………泣い、てんの、か?」
「ううん。泣いてないよ。嬉しいの。だってもう、私達は離れないんだから」
 離れる?そうだ。伊佐那海は、此処にはいないはずだ。どうして………
「おい、伊佐那海、もう待てねぇぞ!」
 いるはずのお前が、見えない。
 ああ………ああ、闇、が………
「一人で、生き残れ」
 鎌之介………


 双眸を見開き、飛び込んできた見慣れた天井。全身から吹き出ている汗を感じて飛び起き、布団もかけず、制服姿のまま横になっていた自分に気づいて、そのまま、取るものも取らずに、才蔵は家を飛び出した。
 まだ、空は白み始めたばかりの時刻だ。道行く人もほとんどいない。病院は開いていないだろう。面会の時間外なのも、頭の隅にいる冷静な自分が理解している。
 それでも、いてもたっても、いられなかったのだ。
 謝りたいのか、確認したいだけなのか、自分自身がわからなかった。
 それでも、ただ、会いたかった。


 入院に関する手続きを済ませ、由利の着替えや下着を取りに一度家へ戻った半蔵が、明け方病室へ戻ると、目が覚めたのか、白い病院着に身を包んだ上半身が、ベッドヘッドに凭れかかっていた。
「由利」
 名前を呼ぶと、ゆっくりと振り返って、そしてその視線は、また窓へと向いた。
「俺、最低だ」
「え?」
「落ちる時、思った。忘れられれば、いいのに、って」
「………それは、今のことを?それとも、過去のことを、ですか?」
「さあ、どっちだろ」
 ロッカーを開けて、着替えや下着、タオル等々の必要な備品を詰め込んで、椅子を引き寄せて座る。
「お前さ、俺のこと、嫌にならねぇの?」
「何を、今更」
「俺だったら、俺みたいな奴、嫌だ、って思う。面倒だ、って。こんなくだらねぇこと、いつまでもうじうじ考えてさ。考えたくなんて、ねぇのに」
「確かに。由利は少し、考えすぎですよ。忘れたって、考えるのをやめたって、何も悪いことじゃないです」
 小さな頭へ手をのせ、右側の傷に響かないように、そっと撫でてやる。
「お前は、俺のこと、好きなんだろ?」
「それこそ、今更ですね。俺は貴女が大好きですし、愛してますから」
「譲ってやれば、よかったのかな」
「はい?」
「伊佐那海に、さ。才蔵を。そうすれば、あんなことに、ならずにすんだかもしれねぇ。無駄に、色んな人間、巻き込んで………」
「由利………」
「でも、俺だって、好きだった、んだ」
「知ってます」
「俺………嬉しかった、んだ………才蔵が、また、俺の名前、呼んでくれて」
 今の名前ではない、過去の名前を。あの声が呼んでくれることが、嬉しかった。
「でも、お前が、俺のこと、好きって言ってくれるのも、嬉しいんだ」
「いいですよ、それで」
「半蔵………」
「言ったでしょ?俺は、貴女が大好きなんです。愛してるんです。それは、もう、初めて貴女を抱いた、あの時からです」
 頭を撫でていた手を滑らせ、肩を引き寄せて抱きしめる。
「貴女を殺したあの瞬間から、俺は、貴女のために生きよう、って思っていたんで、気にしないでいいですよ」
「お前、やっぱ、変だよ」
「変で結構です」
 半蔵にとっては、それが全てなのだ。彼女の命と心を守ること。
 その中に、欠片でも自分と言う存在が、影でも香りでも残せるのなら、それでいい。
 たとえ、彼女の魂が、才蔵と惹かれあっていたとしても。












2012/11/10初出