病院内を無闇に歩き回らないことを固く約束して(守ってくれるとは到底思えなかったが)、半蔵はひとまず、病院を後にした。 半蔵にも仕事があるし、流石に、四六時中見張っているわけにはいかない。 まだ、外来の患者も見舞い客も来ない朝早くに、半蔵は職員の通用門を使用して、ロータリーへと出た。 「君も、大概しつこいですね」 今はまだ、面会時間外だ。中へ入れてもらうわけにいかなかったのだろう才蔵が、病院の敷地内に設置されたベンチに腰掛け、睨みつけるように見上げてくる。その殺気を宿した双眸に、半蔵は目を丸くする。 昨日までの、気の抜けた顔とは随分違う、と。 「で、あの子に何の用ですか?」 「………思い出した」 「はぁ。それで?」 「俺は、あいつが好きだ」 「だから、何です?譲れ、とでも言うつもりですか?」 「んなこと、言わねぇよ。けどな、俺は、てめぇを信用してねぇんだよ」 「………君が俺を信用してもしなくても、俺は、あの子を傷つけませんよ」 「何で、そう言える?」 「もう、見たくないので」 「え?」 「あの子の泣く顔。本当に、綺麗だったんですよ。涙を流しながら、死んでいくあの子の顔。でも、だからこそ、見たくないんですよね。もう、二度と」 他の男を想いながら涙を流し、死んでいく女の顔など、二度も見たくない。 けれど、少しでも、何かが狂えば、あの子はもう一度、そうしてしまう気が、半蔵には常にしているのだ。 だから、欠片も、傷つけられない。真綿に包んで、抱きしめて、見たくないものからは遠ざけてやりたいのだ。 けれど、才蔵が思い出してしまったのならば、もう、駄目なのだろう。 「あの子、泣かさないで下さいよ。俺の、大事な家族なんで」 「てめぇ………」 「はぁ。君がちゃんとあの子のこと守らないから、今から仕事だって言うのに、徹夜ですよ。今日夜勤なのに」 これ見よがしに欠伸をしてやり、半蔵は才蔵に背を向けた。才蔵が何かを言いたそうに口を開いたが、振り返らなかった。 薬品臭い病室にいつまでも居ると、気分が悪くなる。けれど、右半身を満遍なく怪我しているような状況で、出歩けるわけがない。 だが、科学技術の進んだ現代と言うのはこういう場合に便利なもので、あの頃には存在しなかった、車椅子と言うものがある。自分自身の腕で車輪を回転させて前へ進めるのだから、これを利用しない手はない。 半蔵は大人しくしていろと言ったが、そんな言葉を素直に守る由利ではない。看護師に言って車椅子を用意してもらい、いざそれを使ってあちこち出歩こうと、慣れない動きで車椅子を操りながら、どうにか廊下に出た所で、一番会いたくない人物に出くわした。 「話、いいか?外、行くんだろ?」 有無を言わさず、という風に、才蔵が車椅子の押し手を、掴んだ。 一言も言葉を交わすことなく、才蔵が車椅子を押してやってきたのは、面会時間になるまで才蔵が座っていた、ロータリーに程近いベンチ付近だった。芝生の間に模造レンガで舗装がされており、車椅子が通れる程度には道幅があるからだ。 周囲に人気が無いのを確認して、足を止める。 「悪かった」 突然、頭上から降ってきた謝罪の言葉に、反射的に顔を上げると、才蔵が頭を下げていた。 「ひでぇこと、したな、俺」 「何が?」 「お前を、一人にした」 聞こえていたのだ。目が霞んでも、腕や足が動かなくても、鎌之介の声は、聞こえていたのだ。 それなのに、朦朧とした意識の中で、伊佐那海の纏う闇に、押し潰されていった。 「しかも、それを全部忘れてたんだ。最っ低だよな」 約束も、忘れていた。最後の瞬間も、忘れていた。それで、どうして今更言葉を告げられるんだと、戒める自分も、何処かにいる。 それでも。 「俺は、お前が好きだ」 「え?」 車椅子の押し手から手を離し、細い肩へ手を乗せる。そして、滑らせるように腕を回した。 「お前が、好きだ。昔も、今も。ずっと」 「っ………」 「覚えてるんだろ?俺の事、覚えてるだろ?知らないとか、嘘だろ?じゃなきゃ、俺の事避けたり、しねぇだろ?」 変わらない。ぶっきらぼうな声も。温かい手も。 ずっと、これが、欲しかったのだ。 「鎌之介」 懐かしい、声。懐かしい、名前。 でも。 「っ………俺、は………そんな、名前じゃ、ない」 「鎌之介………」 嬉しいのに、それは、今の自分の名前じゃないのだ。 きっと、才蔵は嫌悪する。才蔵が好きなのはあの頃の自分で、今の、半蔵と一緒に居る自分は、嫌うだろう。 どっちも欲しくて、どっちも大切で、捨てられないなんて、何て……… 自分は、汚いのだろう。 「分かった」 「え?」 「今すぐ答えが欲しい、とは言わねぇ。ただ俺は、お前のことが好きだ。それは、変わらねぇから」 才蔵の腕が離れて、頭を撫でる。あの頃と同じように。 「あの野郎だって、本気でお前のこと大事にしてるみてぇだしな」 癪に障るが、半蔵が家族だと言い切ってまで彼女を大切にしているのは、殴られた瞬間にも、痛いほど良く伝わってきた。 それは、嘘ではないと、分かる。 「才蔵?」 「………やっと、名前、呼んでくれたな」 嬉しそうに、才蔵が笑う。 「懐かしい」 毎日、毎日、それこそ飽きる位に、名前を呼んで、追いかけてきていたのだ。それが今は、一度呼んでもらえるだけで、こんなにも嬉しい。 「そろそろ、病室戻るか」 「一人で、戻れる」 「まだ右腕上手く動かねぇだろ」 「動かさねぇと、鈍る」 痛みは多少あるが、我慢できない程ではない。車椅子を自分で動かせるようにも、なりたかった。 「じゃあ、また来る」 「ん………」 才蔵が背中を向けて、ロータリーを抜けていくのを見送って、車椅子の車輪に手をかけた。 「ねぇ」 「え?」 「また、手に入れるつもりなの?」 「伊………あっ!」 闇が、腕を伸ばして、車椅子を押す。そしてそのまま、ロータリーへと、突き落とすように、手を離した。 「いっ………」 車椅子から落ちて倒れこみ、痛む右腕と無事な左腕で体を起こして振り返ると、口元に歪んだ笑みを刷いた女が、消えた。 「鎌之介!」 慌てたような声に振り返ろうとした時にはもう、鈍い色に光る車体が、迫っていた。 『ワタサナイ』 深く暗い、淀んだ闇の声が、囁いた。 ![]() 2012/11/17初出 |