*失心*


 呼吸器に繋がれ、浅く、呼吸を繰り返して微かに上下する胸元。頭に巻かれた白い包帯には、浅黒く出血の痕が残っている。階段から落ちた時には無事だったはずの右足にも、包帯が巻かれている。
 怒りで眼の前が真っ赤になる、という経験を、その時半蔵は、初めて体験した。
 気づけば手が出て、才蔵の首を掴んで、壁へ叩きつけていた。
「ぐっ!」
 強かに頭と肩を壁にぶつけた才蔵が、呻き声をあげるが、構ってなどいられなかった。
「どういう、ことです?」
「服部さん!」
 慌てた看護師が、カルテを放り出して半蔵を止めようとするが、半蔵は看護師の腕を振り払った。
「君がいて、何で、由利がこんなことになってるんです?」
「服部さん!」
 悲鳴にも似た看護師の声に、ようやく半蔵は手にこめた力を緩めて、才蔵の首を離したが、離したその手を翻して、才蔵の顔を殴りつけた。
 小さく看護師が悲鳴を上げたが、才蔵は口端から零れた血を拭って立ち上がり、殴った半蔵を睨みつけた。
「俺だって、むかついてんだよ。てめぇに言われるまでもなく、な」
「だったら、何時までも此処にいないで下さいよ。うぜぇです」
「こいつが、眼を覚まさないのに、帰れるかよ」
 病院の敷地内で起こった事故に、病院側の配慮なのだろう、個室に移された細い体は、白い包帯と白い布団に埋もれて、今にも消え入りそうなほど、青白い顔をしていた。
 頭を強く打ち、出血も酷かった。ただ、不幸中の幸いというべきか、ロータリーに入ってきた車は減速しており、跳ね飛ばされたにしては、打ち付けたはずの腕や足等の、神経や骨に異常はほとんど見られなかった。
 病院内で喧嘩をするなと、きつく言い含められ、一晩泊まる許可を得た半蔵と才蔵は、互いを見ない位置に椅子を置いて、座り込んだ。
「で、何があったんです?」
「………」
「君には、話す義務がありますよ」
「………伊佐那海が」
「は?」
「伊佐那海が、いた。鎌之介の後ろに立って車椅子を、押したんだ。ロータリーに」
「何で、あの女が出てくるんです?」
「知るかよ、俺が。でも、まるで影みたいにその場で、消えちまった」
「………そうですか」
 その後は一言も交わさず、まんじりともせずに、夜が明けた。


 日が昇り、傾いて、そろそろ夕刻になろうという時刻。静かにしていると、点滴の落ちる雫の音すら聞こえるのではないかという静寂の中で、小さな呻き声が漏れた。
 最初に反応したのは半蔵で、立ち上がってベッドを覗き込んだ時には、ゆっくりと、長い睫毛に縁取られた瞼が、押し上げられていき、揺れた。
「由利、大丈夫ですか?」
「………は、んぞ?」
 掠れた、寝惚けたような声で名前を呼んだことに安堵して、ナースコールを押せば、すぐに医者と看護師が飛んできた。
 あちこちを検査して、とりあえず呼吸器は外して大丈夫だろうと判断されたが、点滴はそのままにされ、絶対安静を言い渡された表情が、少し、不満気だった。
「仕方ないですよ。怪我が治るまでは」
「怪我………何で?」
「覚えてないんですか?」
「………?」
 不思議そうに首を傾げる姿に医者も不安を抱いたのか、半蔵と顔を見合わせる。
 すると、まだ少し青白い顔が動いて、視線が才蔵で止まった。
「半蔵」
「はい?」
「そいつ、誰?」


 一時的な記憶喪失ではないか、と医者は口にしたが、半蔵は恐らく違うだろう、と考えていた。そして、それは才蔵も。
 綺麗に、才蔵のことだけを忘れている。この時代で才蔵と出会ったことも、過去、才蔵との間に起きた出来事も、全て。
 事故に遭ったことの後遺症なのか、それとも………
「伊佐那海、ですかね」
「………あいつが、そんなことするとは思えねぇよ」
「どうですかね?大坂を丸々呑み込んだ女ですよ。その位するでしょ?」
 才蔵は、あの景色を見ていない。草木一本残っていなかった、荒涼とした大地を。
 あれを引き起こした闇の女神ならば、人間の心、記憶一つ程度、簡単に消せるのではないかと、疑ってしまうのだ。
 それは、伊佐那海が由利の乗る車椅子を、ロータリーに突き落としたと才蔵から聞いていたせいだったかもしれないが。
 けれど。
「ねえ、才蔵」
「何だよ?」
「君、もうあの子に近づかないでもらえないですかね?」
「………………は?」
「もし、伊佐那海が既に闇に呑まれていたとしたら、君、どうします?どうにか出来るんですか?」
「どうにか、って………」
 あの頃のように、勇士が揃っているわけでもない。才蔵の手の中に武器があるわけでもない。どうにかする手立てなど、現状では一つもなかった。
「出来ないでしょう?だったら、もう近づかないで下さい。これ以上あの子が怪我をするのは、嫌でしょう、君だって」
「それは………」
「女の嫉妬ほど、怖いものはないですよ」
 それが、夫との諍いの果てに、人を殺戮することを宣言した黄泉の女神ならば、尚更。
「あの子の事を思うなら、そうして下さい」
 言って半蔵は立ち上がり、由利の病室へと足を向けた。
 才蔵が追ってくる気配は、なかった。


 病室へ戻ると、看護師が由利の食べ終えた夕食の食器を提げる所だった。ほぼ丸一日食べていなかったせいで、胃に優しいものを、と柔らかい物が中心だったのか、表情が満たされていない。
「由利、林檎、食べます?」
「食べる!」
 売店で買ってきた林檎を袋から取り出して見せれば、嬉々として体を起こす。そんな様は、何も、怪我をする前と変わらない。
「なあ、さっきのあいつ、誰?」
 くるくると、半蔵が器用に果物ナイフで林檎を剥いていくのを眺めながら、口を開く。
「由利が事故に遭った時、居合わせたんですよ。それで、心配してくれたみたいです」
「ふぅん。どっかで会ったことあんのかな」
「さあ。同じ学校ですから、擦れ違ったりしてたんじゃないですか?」
「ああ。制服着てたもんな」
 納得した、という風に頷く姿は、演技でも何でもない。心の奥底、記憶の底から、本当に才蔵のことを忘れている風だった。
「はい、どうぞ」
 林檎を差し出せば、フォークなど使わず、指で掴んで食べ始める。
「急がなくても林檎は逃げませんよ」
 口端についた林檎の蜜を舐め取ってやり、そのまま白い頬に口づけた。
「そういうことすんな!」
 嫌がる素振りも相変わらずで、けれど、才蔵のことだけを、忘れている。
 そのことが、半蔵の中に、この上ない愉悦を齎し、笑い出したい衝動を生んでいた。
 ああ、今度こそ、誰に邪魔されることもなく、本当に手に入れたのだと。
 闇の女神に、感謝すらした。







これにて完結です。長いお付き合いありがとうございました。
別名、半蔵一人勝ちエンディング、です。
悲恋を書くならこうだな、というのは決まっていたので、その通りの終わり方になりました。
この後、二度と才蔵は鎌之介に会わないと思います。
黄泉の女神は容赦がありませんから。そのことはきっと誰より才蔵が知っています。





2012/11/24初出