世間の彼方此方が、甘い香りで包まれる季節がやってきた。正直、貰ったことがないわけではない。だが、その行事自体に興味がないし、甘いものがそう得意ではないので、その行事に付き物の甘い食べ物は、大抵家へと持って帰り、家族の誰かの胃袋へと納まることになっていた。 そして、今年もまた、校内が浮き足立つ日がやってくる。高校三年生という身分では、その浮ついた空気に馴染んでいる場合ではないが、受験勉強の一休み、とでも言うのか、三年の教室がある階にも、何処となく明るい雰囲気が漂っていた。 しかし、才蔵にとって今年のその日は、例年と少し違っていた。悪い方向に、ではあるが。 事の起こりは、三日前に遡る。 その日も、いつもの通りの帰り道だった。一年の教室まで由利を迎えに行き、そのまま彼女の住むマンションに向かう。その帰り道に、一軒のケーキ屋がある。別に、何と言うことはないケーキ屋だ。ただ、いつもと違ったのは、店の前に机を出して、綺麗にラッピングされた菓子を売っていたのだ。 そうか、もうそんな季節なのか、と、大して興味のない才蔵は、その程度のことを思っただけだったが、隣を歩いていた由利は違った。 何故か、店の方を睨みつけるように眺め、足早に店の前を通り過ぎていく。 確かに、以前の彼女も甘いものはあまり好きではなくて、ある特定の人物と甘味について激論になったことも多々あったが、そんなに、睨みつけるほど嫌いなのだろうか?と、不思議に思ったのだ。 その後は何時も通りで、彼女の住む部屋にあがり、何と言うことはない時間を過ごし………疑問に思ったその点を、才蔵が聞き出そうと問いかけた瞬間、彼女の機嫌が、急降下したのだ。 「お前、チョコレート嫌いなのか?」 「あ?何で?」 「いや、何で、って。さっき睨んでただろ」 「………べーつに」 不貞腐れたように、炬燵に足を入れて、炬燵の天板に頭を乗せて、手元にあるテレビのリモコンのボタンを、端から押していく様子は、どう見ても、機嫌を損ねているようにしか思えない。 「何?才蔵好きなの?」 「いや、別に。甘いもの好きじゃないしな」 「なら、いいじゃん」 ぶちり、と音を立てて、テレビ画面が消える。完全に、機嫌が悪くなったらしい。テレビのリモコンが放り投げられた。 「………半蔵が」 「ん?」 「半蔵が、毎年、大量に、貰ってくる」 「はぁ?」 「紙袋とかに、幾つも詰めて、持って帰ってくる」 「………だから?」 「甘ったるい匂いがして、気持ち悪くなるから、嫌だ」 「あいつに言えばいいだろ。持って帰ってくるな、って」 「言ったことある」 「で?」 「付き合いですからね、で却下された」 「あいつらしいと言えばあいつらしいけど、らしくないと言えば、らしくねぇな」 あの男のことだから、彼女の言うことには全て従うのかと思っていたが、そういうわけでもないらしい。 「ああ。それで、お前はやきもちやいてるわけか?」 「そんなん、してねぇ。でも、あの馬鹿、それ全部溶かしてチョコレートケーキ作ってたことあった」 「すげぇな、それ」 「あれ、匂いすげぇんだよ!甘ったるさが家中に広がって、吐きそうになって、仕方ないから、灰桜のとこに逃げた。なのに!その逃げた先にそのケーキ持ってきたんだぞ!嫌がらせだろ、絶対!」 「………それは、確かに強烈な思い出だな」 「あいつはそういう嫌がらせをして楽しむ奴なんだ。俺が困ったり、逃げ回るのを楽しんでるんだ!」 そんな経緯があって、恐らくその当日である今日は、彼女の機嫌は至上最低なのだろうと、才蔵は考えていた。 そして、その予想は裏切られることなく、放課後になって才蔵が由利を迎えに行くと、まるで今から親の仇でも討ちに行くような鋭い目つきで、外を睨みつけていた。そんな雰囲気に恐れをなしたのか、クラスメイトの誰も、彼女に近づこうとはしない。 ああ、きっと、この後荒れるな………という才蔵の予想は、的中することになる。 真っ赤で派手なスポーツカーが、校門から少し離れた場所に、止まっている。その姿を認めた由利の表情が険悪度を増すが、それでも踵を返して別の道を行こうとしない所が、半蔵に対する信頼の現れのような気がして、才蔵としては、決して気分のいいものではなかったが、此処で声を荒げても仕方が無い、と言葉を飲み込む。 「今日、早いな」 「ええ」 開いた助手席の窓枠に腕をかけ、運転席に座る半蔵に声をかけ、視線を後部座席に向けると、その双眸が細くなる。 「また、貰ってきたのか、お前」 「え?ああ。チョコですか?」 由利の横に立って、才蔵も窓から覗き込めば、後部座席には、白い紙袋が二つ、置かれている。無造作に色とりどりの箱が詰められていた。 「何でお前がこんなに貰うのか理解できねぇな」 「おや?そういう君も貰うんじゃないんですか?それなりに」 「もらわねぇよ、俺は。甘いものそんなに好きじゃねぇしな」 事実、才蔵は今年、一つも貰っていない。家族や親戚からも、貰う気は更々なかった。 「殺伐とした職場ですからね。こういう行事に少しでも乗っておかないと、やっていけないんじゃないですか?特に女性は」 毎日、怪我人や病人、死体と向き合い続ける職場というのは、並大抵の気持ちで勤まるものではない。相応の覚悟か諦めがなければ難しいだろう。 半蔵のように、“斬る”感触を不快に思えない人間なら、ではあるが。 「って、ちょっと、由利?乗っていかないんですか?」 助手席の窓枠から手を離し、一人先へと歩いて行ってしまった由利に半蔵が声を上げるが、返事は無い。 「しらねぇぞ、俺は」 「はい?」 「お前、分かってやってんだろ、それ」 「何のことです?」 にこりと、胡散臭い半蔵の笑顔に、才蔵は溜息をつく。 そうだ。この男は、こういう男だ。 「あいつがああやって怒るの、楽しんでるんだろ、ってことだよ」 「ああ。気づいてたんですか」 「それも、わざと貰ってきてるんだろ?」 後部座席に置かれた紙袋。これ見よがしに高級そうな包装がされたものが、上に乗っているように才蔵には見えた。 「俺にはこの位しか考えつかないんですよ」 「あ?」 「由利が怒って、嫉妬して………そうすればその間だけは、どんな感情だったとしても、それは全て俺に向けられますからね。独占できるでしょ?」 「………歪み切ってんな」 「ええ。歪んでいるんですよ。そうでもしないと、手に入れられませんからね、あの子の心は。さて、と。どうやってご機嫌を取りましょうかね」 助手席の窓を閉め、エンジンをかけて、半蔵は車を発進させる。それを見送った才蔵は仕方なく、歩いてその後を追うことにした。 ![]() チョコレートを欠片も食べないバレンタイン。 多分、この後半蔵さんは由利ちゃんをべたべたに甘やかして機嫌をとりますね。 鎌之介にチョコレートとか想像つかなかったので、こんな話になりました。 甘くて可愛いバレンタインへの道は遠く険しい。 2013/2/14初出 |