*愛惜*


 白衣を脱ぎ、鞄の中へとしまい、ロッカーに鍵をかける。同僚の数人と軽い別れの挨拶を交わし、ロッカールームを出て少し行った所で、呼び止められた。
「服部先生!」
 まだ白衣に着られているように見える、今年入った研修医の女性が三人。
「あの、今夜暇ですか?飲み会があって」
「ああ、俺、そういうの基本出ないんですよね」
「え?」
「家で婚約者が待ってるから、早く帰らないといけないんですよ」
「そ、うなんですか」
「そうなんですよ。だから、俺に声かける暇があるなら、医学書の一冊も読んだ方がいいですよ」
「っ!」
 泣きそうな表情を、正面にいる子がしている。だが、服部半蔵にとって、そんなことは如何でもいいことだった。
 飲み会と称してはいるが、それが結局の所合同コンパだということは同僚の話から聞いているし、院内で服部がそういう会に参加することがないのは、周知の事実なのだ。毎度のことながら、年度が変わるとこうして女性達は誘いに来る。それは正直な所、鬱陶しいとしか言えなかった。
 沈鬱な表情をした女性達へ、早々に背中を向けて、歩き出す。
 婚約指輪も結婚指輪もつけていないが、それは仕事上邪魔だからだ。それ以外の理由などない。指輪をつけていないイコール恋人がいない、などという単純な理論を、一体全体どこで学んで来たのだろう。
 院内の地下にある駐車場の中、やはり一番目立つ真っ赤なスポーツカーの鍵を開け、乗り込む。
 医者というのは、もう少し刺激の多い職業かと思っていたが、あの頃、身近に転がっていた死の方が、よほどに刺激的だった気がした。
 肌を刺すほどの殺気、というものなど、この時代に生れ落ちてこの方、感じたことがない。
 車を走り出させ、大通りに出ると、眼に痛いほどのネオンの灯りと、ビル達に切り取られた狭い空の中で、肩身が狭そうに、月が顔を出していた。
「可哀想に」
 月を哀れむのと同時に、家で一人待つ恋人の姿が思い出されて、半蔵は車を走らせるスピードを上げた。


 真っ暗な部屋。勿論、夕食など用意されているわけがない。彼女は料理ができないからだ。できないように、自分が育ててしまったのだ。
 両親を幼い頃に亡くし、半蔵の家に引き取られて、半ば兄妹のように生活していく過程で、半蔵は徹底的に甘やかしたのだ。甘やかして、何もできないようにしてしまった。
 そうすれば、絶対に、自分から離れていかないだろうと推測出来たからだ。
 それは、どんなきっかけで過去の自分を思い出したにしても、そうなるだろうと予見できたからだ。
 暗闇は慣れている。灯りを付けずに寝室にたどり着き、音を立てないようにドアノブを回して扉を開閉する。足音など微塵もさせずにベッドに到着して、腕を伸ばして触れる寸前で、冷たい光に射抜かれた。
「気配消して近づくな、って言ってんだろ」
「すみません」
 眠っていなかったのか………それとも、起こしてしまったのか。どちらにせよ、機嫌の悪い恋人の頭を撫でる。
「遅くなってすみませんでした」
「嫌いだ。お前も、あいつも」
 ぴくり、と半蔵の眉が動き、頭を撫でていた手を止める。
「………会ったんですか?」
「見かけた。学校で」
「才蔵を?」
「三年にいた」
「それで、どうしたんです?」
「どうもしねぇ。向こうに記憶があるかどうかなんて、確かめようがねぇし。あったってどうせ、俺がどうやって死んだかなんて、あいつ知らねぇんだから」
「転校、します?」
「出来るかよ。まだ四月だ。入学したばっかだ、っての」
 もぞもぞと、布団の中へ隠れようとするのを遮るように、布団を捲り、身体を滑りこませる。
「会わないように、避ける。それしか、ねぇだろ」
「由利」
「嫌いだ」
「知ってます」
「優しすぎて、嫌いだ」
「でも、あの時の俺も、優しかったでしょ」
 制服を着たままの細い身体を抱きしめ、力をこめる。
「ちゃんと、貴女の願いを叶えてあげたんですから」
「だったら、今度も殺してくれよ。この時代は生温くって、吐き気がする!」
 心の奥底で飼い続けている狂気。その狂気すら愛しいと半蔵が思っていることを、彼女は知らないのだ。そして、その狂気故に苦しみ、恋い焦がれてしまうことに、気づけないでいる。
 渡さない。今度は、絶対に。
 柔らかな髪を梳いて、慟哭する唇を、半蔵は自身の唇で塞いだ。


 空が、青い。
 一つ、二つと、真っ白な雲が浮かぶ他は何もない、綺麗な空だった。
 嗚呼………此処で、死んでいくのだと、そう実感して、腕から力を抜けば、ことりと、音がする。握っていた刃の柄を、手放した音だった。
 体が、冷えていく。静かに、ゆっくりと。流れすぎた血が、体の中から共に生気を奪い取っていく。
 よく、戦った。戦場で散るのなら、それも悪くなかった。
 影のように生き、影のように死んでいくはずの自分が、名を残さずとも、表舞台である戦という場で命を落とせるのだから。
 瞼を下ろし、一つ、息を吐く。
『なあ、この戦が終わったら………』
 耳の奥で、約束が木霊する。
 嗚呼、そうだ。この戦が終わったら、お前と………


 眼を覚まして、飛び起きる。
 何度も、何度も見る夢。だが、そこで自分の人生が終わったのだ。その先に何を思おうとしていたのかは、思い出せない。
 そして、交わした約束も。
 刃を手放し、瞼を下ろし、静かに忍び寄る死の気配に身を委ねたあの瞬間、自分の生は終わりを告げた。
 約束を、果たすことなく。
 誰と交わしたのか、どんな約束だったのかを、思い出せない。それが、今の霧隠才蔵を夜毎苛んでいた。
 思い出したい。思い出さなければいけないと、そう思うのに、思い出せない。
「畜生!」
 握り締めた拳で布団を叩き、体をもう一度横たえる。
 あの時見た空は、憎らしい位に、美しかった。きっと、誰一人仲間は生き残らなかっただろう………そう思うほどに凄惨な戦場が、地上に広がっていたのにも関わらず。
「っ………鎌之介」
 守りたかった。守ってやりたかった。自分を守ることを知らなかった、彼女を。
 けれど、戦場に出てしまえば、行方を捜すのは容易ではない。乱戦であれば、なおのことだ。
 何処か、自分の知らない場所で彼女が死んだのではないかと思うと、悔やみきれなかった。
 会いたかった。
 ただ、ただ今は、彼女に会いたかった。












2012/7/1初出