才蔵は、約束を果たせなかった。 大坂で、命を落としたからだ。そして、鎌之介がどうなったのかを、何も知らない。 あの晩、戦場へ行かせたくないと思った。泰平の世で生きることが出来ないと、悲しげに微笑んだ瞬間、才蔵は我慢が出来なくなったのだ。 細い体を抱きしめて、綺麗な紅い髪を梳いて、柔らかい唇を啄ばむように、口づけた。 それだけだ。それだけだった。 鎌之介は抵抗しなかったし、少しだけ、照れるみたいにしていた。 抱くことは、出来なかった。肌に触れてしまえば、戦場へなど出したくなくなる。傷など負って欲しくないと思ってしまう。 だから、二人で寝転がって空を見ている内に眠りに落ちた。そして、夜が明け、戦の火蓋は切って落とされたのだ。 恋人では、なかったのかもしれない。そうと認識していたのが才蔵だけだったのであれば、今の才蔵の気持ちは、鎌之介にとってみれば迷惑なだけだろう。 いや、そもそも、鎌之介は才蔵を「知らない」と言ったのだ。ならば、何も思い出していないから、半蔵と共にいるということになるのではないか。 同じ考えが浮かんでは消え、消えては浮かぶその繰り返しに、気が狂いそうだった。 「鎌之介………」 抱きしめていれば良かった。もっと早くに想いを告げていれば良かった。 いつまでも、自分を追いかけてきてくれるから、勘違いをしていたのだ。 見失うことなど、ないのだと。 強く、強く、掴まえていなければ、いけなかったのに。 笑うな。笑うな。そんな、顔で。 『テニイレタ』 そんな声が、聞こえた。 黒い、黒い闇が、迫り、膨れ上がり、包み込み、消えていく。 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。 返せ。返せ。返せ。返せ。 俺が、手に入れたんだ。 お前のものじゃないっ! ひゅぅっ、と喉が音を立てて、悲鳴が上がる。その声に反射的に半蔵は振り返ってベッドの上へ上った。 「由利!」 「ひっ!」 「ゆっくり息をしてください!」 何度も口を開閉し、必至に空気を取り込もうとしている胸元が、大きく上下する。 「はっ………あっ………あ、はんぞ」 中空を彷徨っていた視線が、ゆっくりと焦点を結んで、呼吸が整っていく。 暴れようとしていた両方の腕を押さえ込んでいた半蔵は、その手を離し、眦に溜まっていた涙を指で拭ってやった。 「大丈夫、ですか?」 「はん、ぞう」 「はい」 「一人に、しないでくれ」 「います、此処に。由利の側に」 震える体を宥めるように、額に、頬に、唇に、啄ばむような口づけを落とす。 「んっ………」 「眠りたくないなら、無理に寝なくていいですから」 「思い、出したく、ないん、だ」 「知ってます」 「もう、嫌だ。何度も、何度も………」 才蔵と再会してから酷くなっていく悪夢。夢の中で繰り返す過去の出来事に、もう、彼女の心が限界だった。 どれだけ半蔵が宥めようと、熱を分け与えようと、根本的な解決になどなっていない。 「殺して、くれよ」 「由利………」 繰り返しだ。あの時も、そうだった。 殺してくれと、繰り返し、繰り返し、彼女は半蔵に懇願したのだ。 武器を失い、体の自由を奪われ、命を絶つことの出来ない自分を、殺してくれと。 そして、あの時の半蔵は、その願いを叶えてやった。 けれど……… 「俺を見てください」 「っ………」 顔を近づけ、額を合わせる。 「由利鎌之介はもういません。今の貴女は、服部由利なんですから。縛られる必要なんてないんですよ?」 「でも、覚えてる」 止まったはずの涙が、眦から落ちていく。 「忘れていいんです」 「忘れられない」 「才蔵のことを?」 「違う。違う。才蔵のことじゃない。あの時の絶望だ」 それが、才蔵のことでなくて、何だというのか。 才蔵を奪われた瞬間の絶望ならば、才蔵のことだ。才蔵への想いだ。 「忘れてください。お願いですから」 「半蔵?」 「そうじゃないと、俺が、狂いますから」 狂気の宿った双眸が、鋭く細められた。 嫌だと思っても、朝は来る。起きたくないと思っても、目は覚める。 行きたくないな、と思っても、時計の針は刻一刻と時間を刻むせいで、学校へは行かなければならない。 だが、昼休みも放課後も、姿を晦ましておいた方がいい、と判断した由利は、昼休みの鐘が鳴るのと同時位に、教室を飛び出した。 授業と授業の間の休み時間は、まだいい。三年の教室と一年の教室は階が違うし、移動や体育の着替えなどがあれば、来られないからだ。だが、昼休みと放課後は違う。下手をすれば、顔を合わせることになりかねない。 才蔵は、昔からそういう所は、諦めが良くなかった。納得出来ないことには、納得しないのだ。 もういっそのこと、午後の授業はサボろうか、と考えて足を屋上へ向ける。休んでいるのかと勘違いしてくれた方が、都合がいい、とも考えたからだ。 屋上へと続く階段に足をかけ、軽快に上っていく。最後の一段を飛び越して、扉のドアノブに手をかけると、がちり、と音がして、回転が止まる。 「閉まってるし!」 何で閉まってるんだ!と思っても、開かないことには仕様がない。仮病でも患って保健室にでも駆け込もうか、と考えていると、後ろから声がした。 「屋上は立ち入り禁止だぞ」 聞きなれた声に振り返れば、一段、また一段と才蔵が踏みしめるように上がってくる。 「昔、自殺者が出たとかで、それから立ち入り禁止になってる」 会いたくなかった。自分を一人にした、才蔵と。それを覚えていない、才蔵と。 「あ、そ」 軽く受け流して、距離をとって階段を駆け下りようとすると、腕を掴まれた。 「逃げんなよ、鎌之介」 懐かしい、呼び方。何度も、何度も、そう呼んでくれたのだ。 でも、それはもう、昔の話だ。 才蔵は、覚えていないのだから。 「誰だよ、それ?手ぇ、離せよ」 「嫌だ、つったら?」 「離せよ」 変わらない。手の温もりも、少し冷たく響く声も。 でも、だからこそ、駄目なのだ。嫌なことを、思い出す。あの笑いを。闇の色を。 「いい加減に、しろ!離せっ!」 強く、振り切るように才蔵の手を振り払って、階段を駆け下りようと体を捻った瞬間、体勢を崩した。 「あ………」 「鎌之介!」 才蔵が、腕を伸ばしている。嗚呼、でも、ほら、やっぱり、届かないじゃないか。 一瞬浮いて落ちた体は、数段の階段を超えて、踊り場に叩きつけられた。 ![]() 2012/10/13初出 |