*暗涙*


 着地音もなく、土の上に足を下ろす。
「ああ、凄いデスね」
 無事な左腕で、遠くを見渡すように額辺りに手を上げ、双眸を細める。
 そこには、見渡す限り何もない平原が、広がっていた。だが、そこには元々、平原が広がっていたわけではない。
 数刻前までは、燃え盛る城も、刃を交える幾多の兵士も、屍も、木々も、様々なものがそこにはあったのだ。けれど、それはたった一瞬で全て、消滅した。
 忽然と、全てが消えたのだ。
 黒い、闇に呑まれて。
「流石、というべきなんでしょうねぇ」
 足を進めても、何も見つけられない。刀剣も、弓矢も、鎧も、屍も、花の一つも。
「さて。奇魂はどこですかね」
 あの闇の塊の只中にあったとしても、あの飾りだけは失われることはないだろう。未だに徳川は、あの飾りに執心している。興味はないが、拾っておけば役には立つだろう。
 徳川の陣は既にはらわれ、味方した兵達もそれぞれ自身の領へと戻っている頃だろう。この状態では後始末など全く必要がないが、服部半蔵は徳川に雇われている忍だ。何が起きたのかを報告しろ、と言われては、調べないわけにはいかなかった。
「ま、見つからないでしょうけど」
 闇に腕を奪われたことのある半蔵は、よく知っている。あの闇は、全てを奪い、枯渇させ、消滅させるのだと。
 間近で見たことのない連中に、それを説明するのは至難の業だ。
 何せ、それは人智を超えた、神の所業であるのだから。
 さて、どう徳川に報告すれば、この状況を納得するか………神の闇が全てを呑みこんで戦が終結しました、と報告して納得するわけはない。戦には勝者が必要だ。この場合、敵方の将はほとんど残っていないだろうから、徳川が完全な勝利をおさめたことになるだろう。何せ、敵側の城は、立て篭もっていた城主ともども消滅している。
「面倒ですね」
 もういっそ、放棄していこうか、と歩を進めていた半蔵が溜息をついた時、小さな、黒い点のような影を見つけた。少し速度を上げて近づけば、それが、人影だとわかる。
 まさか、生き残っていた者がいたとは………それとも、全てが消えた後に此処に辿り着いたのか。何にせよ、話を聞く必要がありそうだった。
 そして、その影が明瞭に形を成すに従い、半蔵の口元には笑みが浮かんだ。
 そこは、全てを呑みこんだ闇の中心点に近い場所だったからだ。そして、影の姿にも、見覚えがあった。
「これは、これは。君とは確か、出雲でも会いましたね」
 とても目立つ紅い髪。纏う衣服の彼方此方が擦り切れ、腕や足にも血の滲む傷が確認できる。
「聞こえてます?俺の声」
 真正面に立って腰を折り、顔を近づける。けれど、半蔵の姿が視界に入っているだろうに、反応はなかった。
 しかし、半蔵の目は、だらりと地面へ下ろされた右手が、小さな光物を持っているのも見つけ、ほくそ笑む。
「どうして君が奇魂を持っているんデスか?伊佐那海はどうしました?」
 ぴくりと、細い肩が震えて、顔が上がる。
「あ………伊、佐那海」
「そ。伊佐那海。あの子が身に着けていたそれを君が持っているのが不思議なんデスよ」
 すると、見開かれた両目から、一つ、二つと、雫が零れていく。まさか、泣かれるとは思わなかった半蔵は、少しだけ驚いた。
「才、蔵………あいつ、才蔵を、道連れにしやがった………」
「はい?」
「笑ったんだ。あいつ、俺から、才蔵を奪って、笑って、連れて行った」
「はぁ」
 要領を得ない言葉に、半蔵は溜息をつく。
 出雲で出会った時も妙な科白をあれこれ並べて相当の変態だとは思ったが、今はどうにも、話が通じそうになかった。
「ま、いいです。その奇魂を俺に下さい」
 腕を掴んで奪い取ると、抵抗する力などなく、あっさりと渡される。
「で、君、此処で何してるんデス?」
「何?」
 涙は止まったのか、首を傾げて周囲を見回し、ゆっくりと立ち上がる。
「ああ、そうだ。約束」
「約束?」
「才蔵に、殺して、貰わないと」
 ふらりと、何も持たずに何処へ行くとも知れず、歩き出した細い姿に興味を持った半蔵は、その横に並んだ。
 見れば、転々と、土の上に血の雫が落ちている。座っていた場所にも、血の溜りがあった。膝の上、腿から血が流れている。背中にも少し、大きな傷が見受けられた。
「手当て、しなくていいんデスか?」
「殺して、もらうんだ、才蔵に。そう、約束した」
「へぇ」
 だが、その才蔵は連れて行かれたと、そう先程聞いたばかりだが………焦点の定まっていない双眸を見て、半蔵は笑みを深くした。
 もう、これは、狂っている。
 首の後ろへ手刀を落とし、意識を失わせ、細い体を抱きとめる。
「面白いものを手に入れました」
 戦利品として、これを貰っていこうと、半蔵は力を失った体を、肩の上に担ぎ上げた。


 偶然手に入れた狂った身体は、半蔵の予想以上に美味だった。
 まさか、女だとは思わなかったのだ。鎖鎌を振り回し、殺しを喜び、眼に入墨を刺している女など、お眼にかかったことはない。
 しかも、生娘。己の肉で男を食む喜びなど知らなかった身体が、半蔵の腕の中で、淫らに大輪の華を咲かせていく。
 時折正気に戻る以外は、ほとんど狂ったように才蔵を探す。名前を呼んで、鎖で繋がれた足を前に進めようとする。そのせいで、足首は傷だらけだ。薬をどれほど塗ろうと、治る気配はない。
 血を滲ませ、皮が捲れ、無残な様相だ。
 そして、正気に戻った時に半蔵を見つけると、決まったように口にする。
「殺してくれ」
 と。
 だが、折角手に入れた玩具だ。そう簡単に手放す気はない。
 もう、奇魂などに興味はない。あんな飾りは徳川にくれてやった。今は、この甘美な華を、味わいつくしたかった。
 暗く湿った、使われていない牢獄で、白く甘い肌に手を這わせる。
 逃れようとするように身じろいだ体を押さえつけ、足を大きく広げ、その根元の奥にある蕾に、顔を近づける。
「あっ………あぁっ、半、蔵っ」
 ようやく、名前を覚えた。狂っている時でも、名前を呼ぶようになった。それが何故か奇妙に、半蔵の心を躍らせた。
「あぁ、淫らデスね」
 暗闇の中、見えなくてもわかる痴態に、心が昂ぶる。
「可愛いデスよ。もっと、狂ってください」
 指と指を絡め、肌を重ね、唇を合わせて舌を吸いあう。
 嗚呼、いっそのこと、このまま全てが溶け合って、一つになってしまえばいいのに………そんな風に思えてしまう、己の心境の変化に半蔵は、全く気づいていなかった。
 他の男を想い、狂ってしまった女を、既に深く、愛してしまったことを。


 頬を伝い落ちる、雫。
 握った刃の先から零れる、血の雫。
「あぁ、俺は、馬鹿デスね」
 何も映さない、閉じられた瞼が恨めしい。
 もう二度と、あの瞳が自分を見ることはないのだと、思い知らされる。
 刀を落とし、左腕で細い体を掻き抱く。
 既に事切れた、愛する女の唇を啄ばみ、男は落とした刃を、逆手に握り直した。












2012/10/20初出