*唐紅*


 鮮やかな唐紅が、瞼の裏から消えない。
 瞼を閉じても、瞼を開けても、まるで、残像のように、其処に残り続ける。
 色が、いつまでも己が身を苛み続け、気が狂いそうだった。
「手に、入れなければ」
 あの色を手に入れなければ、心の平穏は、何時まで経っても訪れることが、ない。
 闇の中で、黒い影が蠢いた。


 穏やかな日差しが降り注ぐ、上田の地。城下町には、いつも通りの笑い声が響く。
「ね、ね、才蔵!あっちのお店見たい!」
「はい、はい」
 伊佐那海に腕を掴まれ、ぐいぐいと引かれた霧隠才蔵は、仕方なく彼女の行きたい店の前に立った。
 そこは案の定甘味の店で、甘い匂いが辺りに立ち込めている。
「さ、新作の饅頭だよ!味見しとくれ!」
 元気のいい小母さんが、小さく切った饅頭の欠片を差し出す。
「美味しそー!」
 嬉々として受け取り、口に放りこんだ伊佐那海が、頬を綻ばせる。
「才蔵!これお土産に買って行こうよ」
「あぁ?どうせお前が一人で食べるだろ」
「皆で!食べるの!」
「わかったよ。好きにしろ」
 許可を出すや否や、伊佐那海は店の小母さんへ土産にするから包んでくれと、数十個の饅頭を包ませている。内、何割が伊佐那海の分なのかは、考えないことにした。
 嬉しそうに、包んでもらった饅頭を伊佐那海が受け取った所へ、遠くから近づいてくる地響きのような音。その音に、才蔵はうんざりと溜息をついた。
「伊〜佐〜那〜海〜!」
 野太い声で叫びながら走ってくるのは、自称伊佐那海の兄の清海だ。血が繋がっていないのだから、自称でいいだろう。
「お兄ちゃん、静かに!」
「う、うむ」
 広い肩には、何時も通り、弁丸が乗っている。
「お姉ちゃん、何買ったの?」
「ん〜?お饅頭だよ。お城に帰ったら皆で食べようね!」
「やった!」
 和気藹々と、会話を交わしながら上田の城下町を歩く。そんな中でも、才蔵は周囲への警戒を怠らなかった。
 何日も平穏な日が続いていたが、上田の地が常に狙われていることに変わりはないし、伊佐那海がイザナミノミコトだという事実にも変化はない。何処に、どんな者が潜んでいるか、意識を張り巡らせておくことは、忍である才蔵の性のようなものだった。
 周囲へ視線を走らせながら、才蔵は先を行く伊佐那海達を視界の端に捉えておく。何かあった時に、すぐに行動できるように。盗人や曲者程度ならば、清海と弁丸で何とかなるだろうけれど。
 上田の地は平和だ。今年は旱魃に見舞われることもなく、餓えて死ぬ者は出なさそうだという。それでも、他の土地から流れてきたのか、襤褸布を纏い、狭く湿った路地で蹲る者の姿があった。
 哀れだと思いこそすれ、手を差し伸べるようなことはしない。それは、忍である才蔵の気にするべきことではないからだ。
 だが、そんな流れ者の中に、ふと、異質な気配を感じた。
 忍の中には、そうした者に紛れて情報収集を行う者もいる。物乞い人の姿をして、町行く人々の会話に耳をすませ、情報を選んで売るのだ。だが、そうした気配ともまた違う、暗く、淀んだ気配。
 店の立ち並ぶ細い一本の路地。その入口付近に腰を下ろした、黒い襤褸布を纏った男と思しき姿。顔は頭から被った布で見えない。けれど、男は、布の向こう側から、才蔵を見ていた。
 見ているように、見えた。
 黒い男に、一瞬意識を取られていると、いつの間にか伊佐那海が横に並んでいた。
「才蔵!何ぼっーとしてるの?」
「いや、何でもない」
 ぎゅっ、と腕を掴んで、二の腕に頭を押し付けてくる伊佐那海に、小さく溜息を吐く。
「えへへ。やっぱり才蔵は温かい」
「そうかよ。ってか、暑苦しいから離れろ」
 どういった意味を含ませての好意であったとしても、才蔵は伊佐那海に応える気はないし、こういった場面を見られたくない相手もいた。
「やだよー」
 路地へ視線をやると、男はまだ、布の向こう側からこちらを見ていた。何かあるのか正すべきかと、伊佐那海の腕をやんわり振り解こうとした矢先、声が上から降ってきた。
「才蔵!俺と殺しあおうぜ!」
「こんな町中で暴れんな、阿呆!」
 屋根の上から飛び降りてきた鎌之介の頭上へと、空いている方の手で軽く拳を見舞う。
「何すんだよ!」
 不貞腐れている様子のなさそうな鎌之介に内心安堵しながら、声を上げる。
「お前は物壊すんだから、町中で暴れんな」
「そうだよ!鎌之介は暴れすぎ!」
「うるっせぇ、馬鹿女!」
「馬鹿じゃないもん!」
 先へ行っていた清海と弁丸も戻り、幼稚な応酬が始まったことに才蔵が肩を落とすと同時に、視線を三度路地へ向けると、こちらを見ていた黒い男が、軽く頭を上げ、口元だけで、笑っていた。


 上田の側に広がる森は、心地いい。其処はいつからか、鎌之介にとって邪魔されることのない昼寝場所になっていた。
 山賊をしていた鎌之介にとって、森はあまり慣れた場所ではなかったが、此処には佐助の親しい動物達も沢山いて、才蔵に構ってもらえない時でも、彼らを追い掛け回していれば、退屈しすぎるということはなかった。
 刺激には、欠けているけれど。
 そうして、その日も鎌之介は、何時も通りに、定番にしている岩に背中を預けて、眠っていた。
 陽が中天を過ぎる頃から、ちょうど其処には木漏れ日が差し込んで、心地いい温度になることを、発見したからだ。
 そこへ、黒い影が忍び寄る。ぞろりと、地を這うようにして、静かに、音もなく。まるで、恐れでもするように、動物たちは鳴き声を潜めた。
 木漏れ日に照らされる唐紅色。その色を見つけて、黒い影が声を出さずに笑う。
 影の指先が、ゆっくりと伸ばされた。


 肩に乗っていた雨春が、突然毛を逆立てたのを見て、その視線の向いている先へ、佐助は走った。
 枝から枝を飛び、木々を伝い、辿り着いた先では、何時から来ていたのか、岩に背を預けた鎌之介が、眠っていた。
「雨春、鎌之介」
 仲間だと、勇士だとわかっているはずだろうに、雨春は威嚇をやめない。
 何か、周囲に潜んでいるというのか。しかし、忍の気配など、微塵も感じない。
「んっーあ?緑?」
 寝ぼけ眼を擦りながら、欠伸をして伸びをする鎌之介に、ようやく雨春が威嚇を止め、佐助の肩から飛び降りた。
「あ、にょろ!」
「雨春」
 雨春だと、何度言えば鎌之介は名前を覚えてくれるのか………覚える気はないのかもしれない、と考えて、佐助はそれ以上言うのを止めにした。
 雨春を掴んだ鎌之介が、ぎゅっと抱きしめて、口元を綻ばせる。雨春が自分から鎌之介へ向かっていくのは、珍しかった。
「ん…痒い」
「痒い?」
「首筋、痒い。虫に刺されたかな?」
 念の為、といって佐助が見たが、鎌之介が痒いという場所には、虫に刺されたような痕も何も、なかった。












2012/7/7初出