*侵蝕*


 薫りたつ、花の香り。淡く漂うそれに包まれるように、細い身体が横たわる。
 その姿を見つけた男が、足音を立てないように、静かに近づいて膝を折り、顔を近づけるように、上半身を屈めた。
「姫様。このような場所で眠っては、風邪をひかれますよ」
 静かに声をかけ、散らばる紅色の髪を掬うように撫でると、瞼が震えて持ち上がり、幾度か瞬きをした後、視線が男を捉えた。
「ライズ」
「はい」
 名前を呼ばれて、男が腕を差し出すと、少女はそれが当たり前のように腕をとり、体を起こす。
「私、寝てた?」
「はい。本を読んでいらしたのですか?」
 少女の手元から零れたらしい、頁が開かれたままの本を拾い上げ、ついた草を落とす。
「読んでないわ。口実にしただけ」
「口実、ですか?」
「ここで本を読むから、邪魔をしないで、って」
「成る程」
 あれやこれやと口煩く言うメイド達から逃れるための口実に、本を使っただけで、全く読んではいないというそれの表紙の文字を読み、男―ライズは少女の隣へ腰を下ろした。
「でしたら、私が読んで差し上げます」
「え?」
「姫は、眠っていて下さっていいですよ。夕刻が近づいたら、起こしますので」
 言って、腕にかけたままにしていた膝掛けを、少女の膝へかける。何処かで眠っているのではないかと、見当をつけて持ってきたのだが、役に立った。
 膝へかけられたそれを手に取り、広げて肩へと掛け直すと、少女はライズの横で、丸くなった。
「早く読んで」
「はい」
 子供へ向けて語り聞かせるように、ライズは静かに本の頁を繰り、読み始めた。


 何度も、何度も名前を呼ばれているように思えて、重い瞼を押し上げると、目の前に才蔵がいた。
「………才蔵?何?」
「何?じゃねぇよ。お前、何でこんな場所で寝てんだ」
「こんな場所?」
 言われて、寝惚けている頭を左右に振った後に周囲を見回すと、そこはいつも眠っている森ではなく、上田城でも裏手に当たる、日の当たりの悪い場所だった。
「何で、だっけ?」
 温かかった昼の陽光に、眠いな、と思った所までは、鎌之介も覚えていたが、そこから先を覚えていない。こんな日当たりの悪い場所は、好まないのだが。
「はぁ?覚えてねぇのかよ?風邪ひくぞ」
「風邪………夢ん中でも言われた」
「は?夢?」
「そう。誰に言われたのか覚えてねぇけど」
「夢なんて、覚えてねぇ事の方が多いだろ」
「ん。ってか、何?用があったのか?」
「今何時だと思ってんだ。夕餉の時間だ、っつの」
「え?あ!」
 周囲を見回せば、東の空はゆっくりと暗くなり始めている。
 勢いよく立ち上がった鎌之介が、屋敷へ向かって走り出す。鎌之介が走り抜けていく瞬間、花の香りのような甘さが漂ってきたような気がして、才蔵は首を傾げた。


 鎌之介の指は、細い。よくもこの手で、鎖鎌を操り、大風を起こすものだと感心するほどに。
「何だよ、人の手ぇ見て」
「ん?いや。女の指だよなぁ、って」
 さほど手入れをしているようには見えないのに、鎌之介は細部が女性らしい。ぱっと見は男にしか見えないが、髪や指、首筋など、一つ一つ、部分、部分が、女性らしいのだ。
 幸村が茶会に出席すると京へ出向いた際、鎌之介には女性物の着物を幸村が冗談で着せていたが、正直、似合っていたと思う。
「また、女物の着物、着てみねぇか?」
「嫌だ。動きづらい」
「たまには綺麗な格好してぇ、とか思わないのか、お前?」
「思わねぇよ」
「女らしいお前も、見てみたいとか思うけどな、俺は」
 ただし、才蔵にだけ見せる、という注意書きがつくが。他の誰かにそんな格好を見せるのは、嫌だった。
 指を掴んでいた才蔵の手を離し、暗がりの中に放りだした着物を掴んで体を起こす。
「鎌之介?」
「部屋、戻る」
「は?」
 手早く着物を羽織り、肩口で髪を一つに括り、横になったままの才蔵を飛び越える。
「そんなに女らしい女がいいなら、爆乳女にでも馬鹿女にでも相手してもらえ」
「はぁ?おい、ちょっと待て、鎌之介!」
 腕を掴もうとする前に、まさしく風の如くに鎌之介は部屋を出て行き、開けた襖を叩きつけるように閉めていった。
「………嫉妬、か?」
 女らしい女、ではなく、鎌之介が似合う綺麗な格好を、自分の前だけでしてくれないかという、才蔵の願望だったのだが、うまく伝わらなかったらしいと、頭を掻いて仰向けに転がる。
「明日、謝るか」
 一晩経てば機嫌も直るだろう、と、才蔵は眼を閉じた。


 自室へと戻り、敷いていなかった床を適当に敷いて、寝転がる。最近、夜は才蔵の所に入り浸っていたから、ほとんど使っていない布団だった。その冷たさが、落ち着かない。
 女らしい格好など、鎌之介は一度だってしたいと思ったことはない。びらびらとした女の着物は動きづらいし、あれやこれやと装飾品が多くて、重そうだ。それに、戦うのには向いていない。
 確かに、鎌之介は女らしくない。男として育ってきたから、今更女らしくしようとは思わないし、なりたいとも思わないからだ。
 けれど………
 ぺたりと、自分の胸に手を当ててみる。確かに、こんなに貧相な体では、才蔵もつまらないだろう。
 昨日、城下町で、また伊佐那海が才蔵に抱きついていた。それはいつもの光景で、彼女が才蔵を好きなのだろうということは、鎌之介にも何となくわかっているから、仕方がないことだと思う。でも、仕方がないと思うのと同時に、寂しくなった。  ああいった時、自分は決して顧みられることがないのだ。
 才蔵とは、対等な立場でいたいと思う。けれど、顧みられないということは、対等ではないし、大事にされていないということと同義ではないのか。
 彼は、大事にしてくれたのに。
「ん?」
 脳裏を過ぎる、黒い影。あれは、一体、誰だったのだろう。
 そのままで構わないと、そんな風に言ってくれたのは。
「ん………」
 甘い、香り。しつこくなく、遠くなく、優しく、包み込むような。
 どこから漂ってくるのかわからないその香りが、鎌之介の思考を鈍らせ、影を追うことを諦めさせる。
 そして、その香りを拒絶する間もなく、鎌之介は、襲い来る睡魔に、身を任せた。


 紅い、色。鮮やかに、美しい、狂おしいほどに求め続けた色。
 それが、もうすぐ、手に入る。
「美しい夢を、現実にしてあげますよ、姫」
 そして、死ぬまで、愛でるのだ。
 あの、炎のように燃える、紅色を。












2012/7/14初出