*浸潤*


 体を包む、温かいお湯。自分の為だけに用意された湯船に肩まで浸かり、瞼を閉じる。
 少し離れた場所で、男の動く気配がするのを、耳で聞く。
 小気味良い音を立てて抜かれる、シャンパンのコルク。グラスが机の上から持ち上げられる音に続いて、液体を注ぐ音。
 近づいてくる男の靴音の後、衣擦れが聞こえて、グラスが湯船の淵に凭れ掛けされた頭のすぐ側に、置かれる。
「姫」
 呼ばれて瞼を押し開ければ、耳で聞いていた音と違わない場所に、薄い琥珀色の液体が注がれたグラスがある。
 湯船の中で体を反転させ、湯船の淵に凭れて右手でグラスを持つ。
「ライズ」
「はい」
「ライズも一緒に飲みましょう?」
「姫、私は………」
「お酒、得意でしょう?」
「今は、まだ仕事中ですので」
「私が許すわ」
「ですが」
「皆には内緒よ、勿論。一人で飲んでも味気ないもの」
「………わかりました」
 仕方ない、とでも言う風に溜息をついて立ち上がったライズが、グラスを取りにシャンパングラスの置かれた机に戻り、グラスに少量のシャンパンを注いで戻る。
「酔うわけには参りませんので、これで」
「固いわね」
 ライズが酒に強いことは知っている。だから一緒に飲みたいと言ったのに、何処までも仕事に忠実で、少し、つまらなかった。
 それでも、軽くグラスを合わせて口を付けてくれるのを見て、少女は微笑んでグラスの中の酒を飲んだ。
「私は、何時まで此処にいていいのかしら」
「何時まででも」
「でも、皆が早く嫁に行けと言うわ」
 もう一口酒を飲み、グラスを置いて頭を湯船の淵へ凭れさせる。
「此処が、好きなのに」
「姫………」
「でも、きっと、私がお嫁に行かないと、邪魔よね」
「そのようなことは御座いません」
「邪魔なのよ。だから、晩餐会ばかり開くんだわ」
 自分の居場所が本当に此処でいいのか、少女は少し、不安だった。
 女なのだから、嫁に行くのが当たり前だろうと思うし、周囲もそう思っている。それでも何故か、此処を離れがたいと思ってしまうのだ。
 ずっと、ずっと、此処にいたいのだと。
「私は、姫にずっと此処にいて欲しいと思っています」
 グラスを置いたライズの大きな手が、少女の頭を撫でる。空いているもう片方の手は、湯船にかけられた少女の手に触れていた。
「許されることではないと思っていますが、叶うならば、姫の側でずっと、お世話をさせていただきたい」
 頭を撫でていた手が滑り、髪を梳く。大きな温かい手が、とても、優しかった。
「ライズは、それで幸せなの?貴方だって、結婚したいでしょう?」
 ずっと、嫁にいき遅れた女の世話をするのなど、如何考えても幸せとは思えなかった。それに、彼は仕事が出来る。自分が嫁に行って世話から外れれば、良縁にだって恵まれるだろう。
「姫の側にいることが、私の幸せです」
「嘘だわ」
「姫………」
「そんなの、他人から見たら、ちっとも幸せじゃないわよ」
「他人は関係ありません。私が幸せだと感じるのは、どんな時でも、姫の側にいる時なのですから」
 顔を上げると、少し、寂しそうな双眸が、見下ろしていた。その眼を見て、その言葉が本心なのだと、理解できた。
 手に触れていてくれた手を、逆に掴むようにして、握る。
「ライズは、安心するわ」
 本当に、此処は温かくて心地が良い。何時まででもまどろんでいたくなる場所だった。


 暗く、冷たい部屋。朝焼けの時刻にはまだ遠い刻限に眼を覚まし、鎌之介は、自分が何故其処にいるのか、わからなかった。
「寒い」
 さっきまで、温かい場所にいたはずだ。なのに、どうして急に、こんな寒い場所にいるのだろうか。
「ああ、そうか」
 そういえば、才蔵の部屋を飛び出してきたのだったと思い至り、溜息をつく。
 夢を、見ていた気がする。温かくて、幸せな夢。誰かが、手を握っていた。何となく、その温もりがまだ右手に残っているように思えて、左手で握ってみる。
 彼は、優しかった。側にいると幸せだと、言っていた。
 いや、あれは夢だ。夢の中の出来事に意味などない。温もりがあるはずがない。
 けれど、どこから漂ってくるのかわからない甘い香りが、鎌之介の思考を、掻き混ぜていた。
 呼んでいるのだ。夢の中の声が。自分を。
 いいや。違う。夢は、夢だ。現実は………
 現実は、寒い。夢は、温かく優しかった。
 溺れてはいけない。そう思うのに、体も思考も、言うことを聞かなかった。
 まるで、夢の中へ戻ることを望んでいるかのように、眠気が襲う。
 まだ、朝餉の時間までは十二分に時間がある。あの夢の中へ少し戻る位は許されるだろうと、鎌之介は瞼を閉じた。


 頭が、重い。そう感じながら体を起こし、のろのろと布団を畳み、着替えて、長い髪を軽く結わえ、廊下へと出る。
 まるで、まだ、夢の中にでもいるような、足元の覚束ない感覚だった。
 頭の中で、声がする。夢の中で、自分を呼んでいた声のような気がする。けれど、誰が自分を呼んでいたのか、どう呼んでいたのかがわからない。ただ、相手が男で、そして温かかったと言うだけだ。
 声と夢を振り払おうとして、大きく左右に頭を振り、廊下を曲がる。すると、何か、柔らかいものにぶつかった。
「あら。御免なさい」
 其処にいたのはアナスタシアで、鎌之介より少し背の高いアナスタシアの、大きな胸にぶつかった形になっていた。
 一歩引いたアナスタシアが横をすり抜けようとして、振り返る。
「鎌之介、貴方、何かつけてる?」
「は?」
「いえ。何か、香りがするから」
「つけてねぇよ」
「そう。気のせいかしら」
 憮然とした表情で廊下を歩いていく鎌之介を見送り、アナスタシアは首を捻る。
 それにしては、何処かでかいだことのある香りのような気がしたけれど、と記憶を探ろうとしていると、廊下を歩いていったはずの鎌之介が戻ってきた。
 何も言わずにアナスタシアの横を抜け、そのまま向かった先は、鎌之介の自室だ。音を立てて襖を開け閉めした後姿が、何か怒っているように見えて、首を傾げる。
 すると、鎌之介の向かおうとしていた場所から、才蔵と伊佐那海がやってきた。
「また、城下町?」
「こいつがうるせぇからな」
「行って来るね!」
 否応無く、と言う風に伊佐那海が才蔵の腕を掴んで引いていく。その後姿を見送り、アナスタシアは鎌之介から漂ってきた香りが何なのかを、思い出した。
 異形衆が使用していた花の紋。それに香りづけをしていた男が、一人いたのだ。
「まさか、ね」
 あの男が無事逃げ遂せていたとしても、一人でこの土地に手を出すほど愚かではないだろうと、過ぎった考えを打ち消した。












2012/7/21初出