*落花*


 避けられている。そう才蔵が感じたのは、鎌之介が追いかけてこなかったからだ。
 追い払っても、追い払っても、しつこく追いかけるのが鎌之介だった。強い言葉で突き放しても、穏形してまいても、それでも追いかけるのをやめない。
 なのに、鎌之介が機嫌を損ねた翌日から、全く追いかけてこなくなった。
 それほど怒らせることを言っただろうか。ただ、少し、可愛らしい鎌之介を見たいと口にしただけだったのだが。
 探して謝らなければ、何時までもこのままだろう。仕方ない、と溜息をついて踏み出そうとした時、相変わらずの声に引き止められた。
「才蔵、町に行こうよ!」
 声と共に飛び込んできた伊佐那海が、腕を掴んでくる。冷たく振り払うわけにもいかずに、見下ろした。
「今はちょっと無理だ」
「えぇ?何で?」
「何で、って………あ」
 屋敷の廊下の角を曲がって姿を現した鎌之介が、庭にいる才蔵と伊佐那海に眼をとめると、双眸を見開いて、次にきつくその双眸を細め、踵を返した。
「あ、おい、鎌之介!」
「変だね、鎌之介」
「え?」
 伊佐那海の声に、才蔵は視線を戻した。
「いつもなら、才蔵を見つけると絶対追いかけてくるのに。それに、最近ずっと、暗い場所で寝てるんだよ?」
「あいつが?」
 鎌之介は温かい場所を好んで昼寝の場所に選んでいる。そういえば、少し前にも、やけに寒々しい場所で寝転がっているのを見つけたのを、思い出す。
「時々、ぼぉっとしてるし。声をかけるまで気づかないなんて、おかしいよ」
「………ちょっと、様子見てくる」
「うん」
 喧嘩ばかりする仲ではあっても、大事な仲間だと伊佐那海は考えているのだろう。不安そうな表情の伊佐那海に部屋に戻っておけ、と言い置いて、才蔵は鎌之介を追いかけた。


 気持ちが、落ち着かない。
 何かが、おかしかった。
 才蔵を見れば、戦いたくてしようがなかった気持ちが、全く湧いてこない。むしろ、今はどうしてか、顔を見たくなかった。
 誰かといるのなら、余計にだ。
 あんな風に、誰かと談笑している姿は、見たくない。
 自分以外を見ているのが、どうしようもなく腹立たしくなる。
 足の先から、冷たくなっていく様だった。
 どうして、こんなに寒さを感じるのか、わからなかった。
 温かい場所に行きたい………そう考えている自分の足が、より深く暗い、闇へと足を踏み入れていることを、鎌之介は気づいていなかった。


 震えている手を掴み、肩を撫で摩る手に、少しずつ、震えが治まっていく。
「大丈夫ですか?」
「うん」
「怖い夢でも、御覧になりましたか?」
「わからないわ………でも、私は一人で、寒くて、寂しくて、動けなくなるような、夢」
 思い出そうとしても思い出せない、夢の内容はそれでも、少女に漠然とした不安を抱かせるには十分な印象を持っていた。
「ライズ………ライズは、いなくならないわよね?ずっと、側にいるって、言ってくれたもの」
「勿論です。誰が姫の側を離れても、私だけは離れません。呼んでくだされば、いつでも飛んで参ります」
「良かった」
 安堵するように息を吐き出し、肩の力を抜いて、触れてくれる手の熱を感じていると、体に温もりが戻ってくるようだった。
「ライズは、温かいわ。温かくて、好きよ」
「姫………」
 右手を上げ、ライズの頬に触れる。そこもまた、温かかった。
「誰がいなくなっても、ライズが側にいてくれれば、いいわ」
「本当ですか?」
「うん」
「では、姫………私の我侭を、聞いてくださいますか?」
「ライズの我侭?いいわよ。とても珍しいもの」
 ライズの我侭など、聞いたことがない。叶えて上げられるような我侭ならば、叶えてあげたかった。
 ライズの手が少女の両方の手を掴み、座っていた寝台に、押し倒す。
「姫を、私に下さい」
「え?」
「お慕いしております。何処にも、行っていただきたく、ない」
「ライズ」
「姫が、晩餐会に出席する度に、私の心は落ち着きをなくすのです。今宵こそ、姫を見初める方がいるのではないか。姫が見初める相手がいるのではないか、と。そうして、晩餐会から戻られる姫が一人でいるのを見て、安心するのです。私はまだ、姫の側にいてもいいのだと」
「ライズ………」
「一夜でかまいません。私のものになってはいただけませんか?」
 真摯な告白と、見つめてくる双眸に、冷え切っていたはずの体に熱が戻り、あがっていく。
「一夜で、いいの?」
「姫?」
「私はずっと、ライズといたいのに」
「姫………」
 少女の手首を掴んでいたはずのライズの手は、いつの間にか少女の手に掴まれ、指を絡められていた。
 絡めた指に力をこめて、そっと、啄ばむように一つ口づけ、二度、三度と重ねる内に、いつしか深く、唇を合わせていた。


 深い、森。木の根の側に、細い身体が横たわる。
 紅い髪が乱れた根元、細く白い首筋に咲いた、一つの花。それが、男のかけた術の成就した証だった。
 ゆっくりと、静かに、夢の中で心を捕らえて、そうと知れぬ内に精神を犯される。
 以前、一度術をかけた時には破られた。だからこそ、今回は慎重に、気づかれぬように侵蝕していくことにしたのだ。
 夢という形をとって。
 ようやく、焦がれた紅色が手に入る。これでもう、瞼に宿った残像に悩まされることはないだろう。
「さあ、姫。参りましょう」
 細い体を抱き上げようと、腕を伸ばした瞬間、視界に煌くものが見え、男は半歩後ろへと飛び退った。
「てめぇ、何者だ?」
 音を立てて、木の幹に数本の苦無が突き刺さり、抉る。
「無粋な」
 突き刺さった苦無の一本を抜き、それを手に屈みこみ、横たわる細い体を抱き上げ、その喉元へ切っ先を突きつける。
「っ!」
 腰に下げた刀を抜き、才蔵は構えた。
 眼の前に現れた黒衣の男が、何日も前に城下町で見かけた異質な気配の男だと気づき、刀を握る手に力をこめる。
「何者だ?名乗れ」
 此処へ近づくまで、その姿を視界に捉えるまで、才蔵は男の気配に気づかなかった。それは、相手が相当の手練だということを示している。
「伊賀異形五人衆が一人、朽葉」
「何?」
 瞠目する才蔵の前で、朽葉は鎌之介を抱く腕に力をこめ、喉元へ突きつけた苦無の切っ先を、細く白い首筋へと滑らせた。












2012/7/28初出