滑らせた苦無の切っ先が、白い肌の上に小さく赤い筋を作る。じんわりと滲んだ血の色に、才蔵が半歩足を前に出すのを見て、朽葉は口元に笑みを刷いた。 此処数日、朽葉は鎌之介を観察してきた。夢を介して、彼女の心の動き様を見てきたのだ。だからこそ、わかる。 この少女は、この男を愛しているのだと。 そしてまた、この男も。 だが、朽葉とて、この少女が欲しいのだ。自分の幻術を覆し、屈服させ、あと一息にまで追い込んだ、その強い心が。 それが、崩れていく様が、見たい。 「そいつを、どうするつもりだ?」 「どうも」 「何?」 「既に、私の術は完成している」 苦無の先で、鎌之介の首筋に咲いた花を見せつけるように、髪を持ち上げる。 「彼女は既に、私の術の虜だ。優しく温かい夢の中で、愛する男に愛され、二度と、目覚めることは、ない」 「ふざけんなっ!」 苦無を取り出そうとした才蔵は、しかし、朽葉が手にした苦無の切っ先が鎌之介の胸に押し当てられたのを見て、腕を止めた。 「今殺せば、彼女は幸福なまま、死を迎えることが出来る」 「幸福、だと?」 「以前、彼女は私の幸福を否定した。だが、貴方のせいで私の与える幸福を理解できるようになったようだ」 戦うこと、血を見ることが幸福だと、快楽だと断じた鎌之介が、朽葉の与える夢の中、ゆっくりと、その温かさに浸るようになっていったのは、この男のせいだろうと、朽葉は考えていた。 「今頃は、愛する男に抱かれ、その快楽に身を浸していることでしょう」 「野郎!」 踏み込んで刀を揮うが、朽葉は鎌之介を抱えたまま後ろへ下がり、避けた。 しかし、その避けた先で、別の刃が視界に入り、朽葉は体を捻り、避けた。 「佐助?」 「貴様、何者!」 上空から落ちるように朽葉へ刃を向けたのは、森を庭にする佐助だった。森の中がざわめき始めたことに異変を感じ、辿り着いた先で、才蔵が黒衣の男と対峙していたのだ。 「ああ………姫に傷がついたらどうするつもりだったのです?」 「姫?」 朽葉の口にした言葉に、佐助はようやく、その腕の中に鎌之介がいることに気づいた。 手に握る刃を改めて構え、佐助は才蔵を見た。鎌之介を人質にとられ、動けないのか………と、視線を男へ戻すと、男の手に握られた苦無が、鎌之介の肩口から腰元まで、衣の上を滑るように下ろされた。 「ええ。姫です。貴方はご存知なかったんですか?」 苦無に引き裂かれた衣の下から現れた、鎌之介の白い肌に、女性しか持ち得ない体の特徴を見つけた佐助は、動揺して動きを止め、思考も停止してしまった。 その隙を朽葉は逃さず、苦無を才蔵へ投げつけると、鎌之介の首筋に咲いた花へと、唇を押しつけた。 「てめぇ!」 苦無を避けた才蔵が、怒気を露に刀を振り上げた時、鎌之介の首筋の花が、動いた。正確に言うならば、花が、茎のようなものを、肌の上へ伸ばしたのだ。 「さあ、どうします?これが彼女の全身を覆えば、二度と、彼女は目覚めない。幻覚の中で、幸福に、死を迎えることが出来る。それを死とは気づかないままに」 それは、戦いに身を置く事を何より楽しむ鎌之介にとっては、屈辱以外の何ものでもないだろう。 「彼女が幻覚に浸ったまま死ぬか、私が先に死ぬか………どちらが早いでしょうね」 花から伸びた茎が、少しずつ、まるで蔦のように鎌之介の首筋を這い、覆っていく。 一歩を踏み込もうとして踏み込めずにいる才蔵を嘲笑するように口角を上げて、朽葉は地面を蹴った。 「それでは。姫は戴いていきます」 「待ちやがれっ!」 怒鳴る才蔵の声に佐助が我に返った時には既に、朽葉の姿も、鎌之介の姿もなかった。 才蔵と佐助から報告を聞いた幸村は、口から紫煙を吐き出し、溜息をついた。 「やはり、鎌之介は女子であったのか」 「若」 「で、才蔵。他にもわしに報告することがあろう?」 「何だよ?」 「お前、鎌之介と良い仲になっているのであろう?何でそういう事を先に報告せんのだ」 にやにやと笑う幸村の言葉に、佐助が眼を丸くし、茶を入れていた六郎が深々と溜息をついている。 「今はんなこと言ってる場合じゃねぇだろ!アナは?」 「先程呼んだ」 幸村の前に六郎が茶を出したのと同時に、アナスタシアが姿を現した。 「何があったの?」 「アナ。朽葉って野郎のこと詳しく教えろ」 「朽葉?何で、朽葉の名前が急に出てくるのよ?」 不思議そうに座る才蔵を見下ろしたアナが室内に足を踏み入れる。 「鎌之介を浚っていきやがった」 「え?………………ああ、そういうこと」 「あ?」 襖を閉め、けれど腰は下ろさずに、アナスタシアは壁に背を預けた。 「朽葉の武器は幻覚。相手に幻覚を見せて命を奪う」 「どうやって?」 「幻覚の中で生き始めた人間は、現実世界での食事を忘れるわ。必然、餓死するのよ。あの時、朽葉の担当は鎌之介だった。一度も幻覚を破られたことがないと豪語していた朽葉の相手をした鎌之介が生きているんだから、あの子はそれを破ったんだわ。どうやってかは知らないけど」 一度自分を負かした相手に固執しているのならば、今度こそ逃がそうとしないだろう。 「きっと、幻覚の中で取り殺す位には考えてるはずよ」 「そいつがいそうな場所に心当たりは?」 「ないわ。でも、異形衆が使っていた集合場所の幾つかなら、教えられる」 「頼む」 才蔵の表情に、アナスタシアは仕方が無いとでも言う風に、肩を竦めた。 褥の上へ横たえた細い体の全身を、ゆっくりと蔦が這っていく。首筋から徐々に広がって行くそれは、既に腕へと到達していた。 けれど、昏々と眠り続ける白い顔には、微かな微笑が浮かんでいる。 既に、使われなくなって久しい無人の寺。以前は異形衆が集合する際に使用していた場所だが、頭たる服部半蔵がいなくなってからはそれすらも無かったせいか、荒廃は激しいが、起居に不便なほどではない。 堂内からは、仏像や掛け軸などの金目のものは粗方盗まれており、人も近寄らない。 右手の親指の先を噛み千切り、滴る血を床に落としながら、眠り続ける体の周囲をゆっくりと、歩く。その間、口中で低く、呪いの言葉を呟きながら。 一巡り、血によって円を描き切って最初の地点へ戻ると、微かな微笑を浮かべた頬へと手を添え、そのまま滑らせて、首筋に浮かんだ花へと触れる。 すると、周囲を覆うように描いた血の円が反応し、肌を伝っていた茎が更に伸びる速度を増し、それが実態を伴うように肌から飛び出して、細い体を絡めていく。 「くくくっ………私の幻覚は、それだけでは終わらない」 早く壊れてしまえ、と思う反面、もっと抗え、とも思う自身の感情が、朽葉には理解できず、また、愛しむように頬へ手を滑らせていることにも、気づかなかった。 ![]() 2012/8/5初出 |