*明暗*


 風が唸る。光と闇が明滅する。前後不覚になった体が宙へと浮いて、投げ出された。


 広がり続けていた灰黒の雲から、とうとう雨粒が落ちてきた時、男は、傘も差さずに、ただ真っ直ぐ、真新しい白い墓石を、見つめていた。
 男が、最愛の主と慕った者が今、この柔らかい土の下に眠っているのだと思うと、感情が堰を切って溢れ出し、その土をすぐさま掘り返したくなるほどだった。
 偏にそれを耐えているのは、土の下に眠ってしまった主の家族が、傍らにいるからだった。
 豊かな口髭を蓄えた老紳士が、男の肩へ手をのせる。
「あまり濡れては体に障る。もうそろそろ、帰ろう」
「………はい」
 不慮の、事故だった。誰にも止められず、誰にも庇うことが出来なかった。
 気を荒くした馬に引かれた馬車に、轢かれたのだ。
 男は、その場面を見ていた。その場にいたのだ。それなのに、助けられなかった。尋常ではない速度で走ってくる馬車が、細い体に迫ってきたかと思った瞬間には、その体は石畳の路地の上で跳ねていた。
 何故、自分ではなかったのか。何故、主が死なねばならなかったのか。
「暫く、勤めを休みなさい。君には、休息が必要だ」
「いいえ、旦那様。勤めを休むわけには参りません」
「………思いつめてはいけない。あの子は、きっとそんな君の姿を、望んではいないだろうからね」
「………………はい………っ」
 穏やかに、諭すように言葉を零す老紳士に深く、深く頭を下げて、男はそれでもしばらくは、雨に打たれて其処にいた。
 涙を流すように濡れそぼつ墓石を、眺めながら。


 ぐっしょりと濡れた重い体を引きずるように墓地を後にした男は、先に屋敷へと戻った雇い主を追うように、同じ道を辿っていた。
 既に、空を覆っていた灰黒の雲は、少しずつ千切れるように遠ざかっている。けれど、そんな空の様子すら、足元に視線を落とした男の視界には、入らない。
 屋敷の立つ敷地内の一角に設けられた、墓地。その土の下に眠るには、早すぎる死を遂げた男の主は、生前、墓地を嫌っていた。
 湿っていて、暗くて、嫌だ、と。自分はあんな場所には入りたくない、もっと明るくて綺麗な場所がいい、と。
 だから、せめて、主の眠る墓石だけはと、綺麗な白色を選んだ。棺も白色だった。
「っ………姫………」
 雨はとうに止んだというのに、男の眦からは留まることのない涙が、零れて地面へと落ちていく。
 その時、庭に放し飼いにしている番犬が二匹、吠えた。何かの異常を知らせるその吠え方に、犬の調教を担当していた男は、反射的に反応して、顔を上げた。
 向かっている道の途中で、二匹が同じ方向を向いて吠え、尾を振っている。その先は、今は咲いている季節ではないが、薔薇園がある。亡き主が好んだ花の湯船に、欠かせない薔薇だった。
 たっぷりと雨を浴びた、茂る薔薇の葉や枝を倒すように、一角が不自然に窪んでいる。そこへ向かって犬が吠えているのだと気づいて、男は駆け寄り、覗き込んだ。
 そして、息をすることを一瞬、忘れた。
「ひ、め?」
 搾り出すように呟いた声は、驚愕に嗄れていた。
 薙ぎ倒された枝葉の上に、土の下へ眠ってしまったはずの、彼の主と酷似した姿の、少年にも少女にも見える若者が、血まみれで倒れていた。


 見たことも無い衣装に身を包み、血まみれで倒れていた体を抱き起こし、男は屋敷へと駆け込んだ。
「医師を!医師を早く!」
 血相を変えて飛び込んできた男の様子に、女中達が驚いたように動きを止めたが、その腕に抱えられた血まみれの人間を見て、悲鳴を上げる者、湯を沸かしに走る者、医師を呼びに行く者と様々だった。
 客間の一室に運び込み、天蓋のついた寝台に寝かせる。そこへ、男の雇い主が現れた。
「一体、何事だね?」
「旦那様………それが、庭に人が倒れていまして。申し訳ありません。許可なく運びこみまして」
 頭を下げる男に、雇い主が怪訝そうな視線を投げかけ、天蓋の内側を覗き込んで、息を呑む。
「………こ、の子は、姫に………」
 言葉を失ったように、小さく吐き出す雇い主に、男は強く答えた。
「はい。瓜二つでございます」
 鮮やかな朱色の髪も、白い肌も、左目に施された刺青の紋様も、細い体も、何もかもがよく、似ていた。
「必ず、助けなさい」
 娘に良く似た姿が、酷く傷ついていることに憐憫を覚えたのか、震える声で言う雇い主に、男は深く頭を下げた。
「はい!」
 しかし、せめて医師が来る前に少しでも、と、男が怪我の応急処置をしようと持ち出した道具は、到底役には立たなかった。
 汚れた衣服を脱がせた下には、大きく切り裂かれた胸元があった。左肩に近い鎖骨部分から、右の胸の下辺りにかけての傷。
「何と、惨い」
 雇い主の呟きに、男は用意してあった布地を、少女の胸元にかけた。それもすぐ、溢れ出す血で汚れてはしまったが。
 見るに、忍びなかったのだ。年端もいかない少女が何故、このような大怪我を負っているのか。せめてもの救いは、小さな胸元に、その傷が達していないことか。
 それだけではない。腕や足にも、幾つもの切られた傷があり、古傷のようなものまで散見される。あまりに、酷かった。
 一体、この少女はどんな過酷な人生を歩んできたのだろう。小さな体に、数多の傷を残してしまうほどの。
 そんな風に思いを馳せていると、少女の瞼が開いて、綺麗な碧色の双眸が覗いた。
 そんな所まで、男の亡き主に似ていて、胸が締め付けられた。
「気が、つきましたか?」
 声をかけると、ゆっくりとその視線が動いて、男でとまる。そして、細い腕が上がろうとした。
 その手を掴んで、握り締めてやる。
「もう、大丈夫ですよ。此処は、安全です」
 害を為す気はないのだと知らせてやるために、努めて冷静に、優しく言葉をかけてやると、少女の肩が震えた。
 そして、唇が開く。
「………俺、生きて………くっ………くくっ………あはははははっ!」
 狂ったように笑い出した少女は、その上、喉の奥で笑いながら、無理矢理に体を起こそうとした。
「何をしているんです?怪我をしているんですよ?」
 男が、傷に極力響かないようにと、軽く肩を押せば、簡単に横たわってしまう位、その体には力が入っていないのに。
 だが、横たわってしまった少女は、それでも、戦意を失わない戦士のように、碧色の双眸に鋭く、燃えるような光を宿して、男を睨み上げた。
「だから………何だ?俺、は………俺は、まだ戦え、る………」
 荒い呼吸と共に、途切れ途切れに言葉を吐き出したかと思ったら、少女はそのまま意識を失い、枕に頭を預けてしまう。
 その、艶やかで苛烈な様子に、男は言葉を失い、医師が来るまで動くことが出来なかった。












2013/9/1初出