*目睫*


 泣かないで。
 貴方に、泣いて欲しくない。
 貴方のせいなんかじゃない。
 私が、馬鹿だっただけだから。
 だから、どうか、泣かないで。


 意識を失った少女は、何日も目を覚ますことが無かった。医師も息を呑むほど酷かった胸元の傷は、長い時間をかけて縫い合わされたが、その傷から来る発熱で、生死の境を彷徨ったからだ。
 ようやく容態が落ち着いたのは、男が少女を見つけてから、丸四日が経過してからだった。


 冷たい水に浸したタオルを、少女の額に乗せる。大分熱が下がりはしたが、未だに眼を覚ます気配はなかった。
 男の主の世話をしていた女中の何人かがその世話を申し出たが、男は全て断り、少女が意識を失ってから、付きっ切りで看病をしていた。
 かつて、幼かった主が風邪を引いた際にもこんな風に、男が看病をしたのだ。主は我が侭で、他の人間が看病をするのを嫌がったからだ。
 既に、失われてしまったものを取り戻そうとするかのように、男は出入りする者の少ない部屋で、少女と向き合っていた。
 意識を失う寸前に少女が見せた、あの苛烈な双眸が、男の脳裏に焼きついている。亡き主と瓜二つの姿をしているのに、その双眸に宿す光は、主以上に、強く輝いていた。
 それが、生きようとする者の、命の光なのだろうか………と、ベッドの脇に置いた椅子に座り、手持ち無沙汰に懐中時計を取り出して弄んでいると、視界の端に映っていた細い腕が、動いた。
 首が左右に振られ、額に乗せたタオルが落ちる。そして、ゆっくりと、瞼が押し開けられた。
 現れるのは、やはり四日前に見たのと変わらない、主と同じ、碧色の双眸。熱に浮かされているせいなのか、先日のような強い光はなく、潤みを帯びていた。
「目が覚めましたか?」
 男が立ち上がって声をかけると、視線が男を捉え、腕が動く。体を起こそうとしているのだと気づいて、男は腕を伸ばした。
「失礼します」
 声をかけ、背中へと手を差し入れて、細い体を起こしてやると、口を開く。
「あ………けほっ」
「待ってください。今、水を」
 何日も熱に魘されて眠っていたのだ。水分補給もまともにしていないのだから、声が出なくて当然だった。
 ガラスのコップに水を注ぎ、少女の手に握らせる。
「ゆっくり飲んでください」
 静かに、ゆっくりと飲ませると、コップ一杯分の水はなくなった。
「気分はいかがですか?」
「………誰?」
「私は、ライズと言います。貴女のお世話をさせていただいています」
「っ………頭、痛い………」
 額に手を当て、呻いた少女の手を退かし、傷に負担がいかないように、背中に手を添えてゆっくりと、ベッドへと寝かせる。
「まだ、熱が下がっていませんから、ゆっくり休んでください」
 落ちてしまったタオルを拾い、冷たい水の中へとつけて固く絞り、まだ少し熱い額へ乗せてやる。
 ぼんやりとした双眸が瞼の下に隠れ、暫くすると、寝息が聞こえてきた。
 高熱に魘されて苦しんでいた時よりも、その寝息が穏やかに聞こえて、男―ライズは少しだけ、安堵した。


 遠くで、ガラスのような、陶器のような物の割れる音が響き、ライズは急いで踵を返した。少し休んだ方がいいと言われ、自室へ下がる途中だった。
 けれど、耳に届いた音が、助けた少女の部屋の方角から聞こえ、いてもたってもいられなかったのだ。
 断りなく部屋の扉を押し開けると、部屋の真ん中程に置かれたベッドの脇に少女が立っており、その正面に、彼女の世話を任せた女中が、顔面を蒼白にして立っていた。その足元には、水を入れていたガラスのコップと水の入っていたはずのデキャンターが落ちて割れていた。
 デキャンターの中の水が床に零れ、水溜りが出来ている。
「どうしたんですか?」
 ライズが声をかけると、女中が一安心したように表情を和らげて、口を開いた。
「その、彼女が急に起きて立ち上がって、サイドテーブルの物を全部倒してしまったんです」
「そうですか。貴女は片付けるための道具を取りに行って下さい。彼女の世話は、私が」
「あ、はい」
 頭を下げて女中が部屋を飛び出していく。その後姿を見送って、ライズが視線と体を少女へ向けると、割れたガラスと水溜りを飛び越えた少女の姿が、眼の前にあった。
 声をかけようと、ライズが口を開くよりも先に、銀色に光る何かが眼前を閃いて、ライズの体は、床に落ちていた。
 強かに背中を打ちつけ、痛みに小さく呻き声をあげた次の瞬間、先ほど眼前を閃いた銀色が、眼の前に突きつけられていた。
 それは、サイドテーブルに載せられていた果物と一緒に置かれていた、ナイフだった。よく見れば、果物の幾つかが壁際まで転がっている。
「誰だ、てめぇ?」
 低く、少女が呟いて、ナイフの切っ先をライズの喉元へと移動させる。少女の細い体はライズの腹の上に乗り、冷たい視線が見下ろしていた。
 ああ、この少女は、主とは違うのだ、と、その時、強く実感した。


 数秒の間を置いて、ようやくライズは口を開いた。
「ライズと申します。貴女のお世話をさせていただいています」
 ライズは、他者に仕えることを仕事としていく上で身に着けたポーカーフェイスで、にこやかに微笑んでやる。すると、少女は怪訝そうに視線を細める。
「俺の、世話?何で?」
「貴女は、このお屋敷の薔薇園で倒れていたのです。それも、血を流して。ですので、お屋敷の中へ運び、医師による治療を施させていただきました」
「ふぅん。じゃあ、敵じゃないんだな?」
「このお屋敷の中に、貴女に害を為そうと考える者は現状、いないかと思います」
「あ、そ」
 手の中でナイフを回転させて、ライズへ柄の部分を向けると、少女はようやくライズの腹の上からどいた。
 そして、不思議そうに自分の握っているナイフを眺め、手の中で弄んでいる。
「お気に召されましたか?」
「あ?いや、見たこと無い形だと思って」
「見たことが無い?」
 少女は顔を動かして室内をぐるりと見渡した後、落ちていた果物を拾い、手の中で上下左右を見回した後匂いを嗅ぎ、振り返った。
「これ、食い物?」
「林檎ですが?見たことが?」
「ねぇな。どうやって食うの?」
「お貸し下さい。皮を剥いて食べる物です」
 少女の手から、林檎とナイフを受け取り、ライズはその場で皮を剥き、何等分かに切ってやると、その一つを少女に渡した。
「甘いと思いますよ」
「………うまい」
「それは良かった。熱も下がったようで、何よりです。ですが、まだ病み上がりですのでベッドへお戻り下さい」
「………ベッドって、何?」
 少女の言葉にライズは驚愕し、林檎とナイフを落とした。












2013/9/14初出