*自覚*


 扉を開けて、顔面にぶつかった物に、ライズは呆然とし、次いでそれを手に取った。
 柔らかい絹のドレス。裾や袖に花があしらわれ、腰の部分が細く縫われているが、コルセットは入っていない。傷に響いてはいけないと、柔らかさと着易さを重視して作られたドレスだが、それが何故か、今、ライズの顔面に直撃した。
「こんっなびらびらした服着られるか!」
 叫び声に、室内にいたメイド二人が眼を見開いている。その手には、他にも用意されていた数着の衣服が持たれている。床の上にも幾枚か散らばっているが、それらは無残にも踏み潰されていた。
「俺は動きやすい服でいいんだよ!女みたいな服なんか真っ平御免だ!」
 助けを求めるように、メイド二人の視線がライズに向けられる。ライズは自分にぶつけられたドレスを腕にかけ、近づいた。
「ですが、貴女は女性ですので、女性の服を着ていただくのが普通かと」
「俺は女扱いされるのが大嫌いなんだよ!」
 ようやくベッドの上から起き上がれるようになった少女に、屋敷の主は数着の服を用意した。だが、少女は警戒心を解くことなく、それらを着用するのを固辞している。
 その状態が、既に、二日ほど続いていた。手を変え、品を変え、人を変えて服をすすめても、少女はライズが着ているような男物の服で十分だ、というのだ。
 しかし、ライズが着用している服は、使用人の衣服だ。それを、客人として扱われている少女に着せるわけにはいかない。
 そのせいで、少女は今、何故か、唯一着てもいい、と口にした、ブラウス一枚だ。正直な所、ライズとしては、ブラウスの裾から真直ぐに伸びる細い足が、眼に毒だ。
「申し訳ありませんが、もうすぐ医師が参りますので、下に何か着用してください。お医者様の前でその格好は、如何かと」
 呆れた溜息混じりにライズが言うと、嫌そうな表情で、少女は衣服の中に混じっていた色見本の一枚布を掴むと、それを腰に巻きつけた。
「めんどくせぇからこれでいい」
 近場にあったリボンを掴んで、それで器用に布を腰に結んでしまうと、布団の中へと潜り込んだ。


 医師の診察が終わると、退屈そうに少女は足で布団を蹴上げ、体を起こした。
「あ〜。体が鈍る」
「病み上がりですので、激しい動きはお勧めできません。医師からも、三週間は安静に、と言伝を戴いています」
「はぁ?んなに寝ていられるかよ!」
 数日前まで熱で魘されていた頭を抱えて仰け反り、柔らかい枕の上にダイブする。
「この枕、気持ちいいな、柔らかくて」
「お気に召されましたか?」
「うん」
 素直に頷いて、枕に頭を埋めている。その姿を見て、そういえば、とライズは今更ながらに気づいた。
「申し訳ありません。貴女のお名前を聞き忘れていました。教えていただいても?」
「鎌之介。由利鎌之介」
「………えーと、ファーストネームがユリ、ということでよろしいですか?」
「ふぁ?何、それ?何でもいいよ、呼び方なんて」
 言葉は通じているが、しかし、彼女はあまりに物を知らない。ベッドにグラス、ナイフやフォークの使い方も知らなかったのだ。ならば、異国の民であろうとは思っていたが、ファーストネームが通じないとは思わなかった。
「では、ユリとお呼びいたします」
「ああ」
「それでは早速ですが、医師から許可も出ましたし、お風呂をお使いになりますか?今まで女中に体を拭いてもらうだけで、すっきりはしなかったかと思います」
「風呂?風呂は好きだ!」
「では、用意してまいりますので、少々お待ちください」
 枕から頭を上げて破顔したユリに、ライズも微笑を返した。


 濛々と湯気の立ち昇る湯船に、驚きの表情を見せて振り返ったユリに、ライズの方が驚いた。
「これが風呂?」
「え、ええ。そうですが、何か?」
「でっか!こんな広いの?」
 何と比べて広いといっているのかは分らなかったが、ライズの常識では、この屋敷の主達一家は、他の特権階級と比べると、慎ましい生活をしているのだ。郊外に何軒もの別荘を持っているわけでもなく、この屋敷とて庭や薔薇園を立派に作っており、屋敷の建物自体は小作りだ。自ずと、浴場の広さも限られてくる。ライズ達のような使用人の使う浴場と比べれば、それは勿論雲泥の差ではあるのだが………それでも、豪勢過ぎる、という類のものではない。
「泳げるじゃん!」
「ええ。ですが、泳がないで下さい。医師から許可が出たとはいえ、まだそのように激しい運動が出来る状態ではな………何してるんですか!」
「え?脱がなきゃ入れねぇじゃん」
 徐に、着ていたブラウスのボタンを外し始めたユリにライズは動揺し、急いで衝立を運び、自身とユリの間に広げて立てた。
「わ、私の目の前で脱がないで下さい」
「何で?」
「何で、って………貴女は、女性ですから」
「………俺、そういうの嫌いなんだよな。男として生きてきたから、今更女扱いされんの嫌なんだよ」
「それでも。私と貴女は特別親しい間柄というわけでもないのです。使用人の前で衣服を脱ぎ去るのは、お止めください」
「それって、ここの流儀なのか?」
「流儀と申しますか、当たり前に存在する、主家とそれに仕える者の領分です」
「難しいことわかんねぇよ。まあ、いいや」
 衝立の向こう側で、衣服を脱ぐ音がしている間、ライズはかつて、主である姫にしていたように、アルコール度数のあまり高くないお酒を用意した。恐らく、見た目から飲める年齢だろうと、判断してのことだった。
「なあ、そのまんま入っていいの?」
「ええ。熱いようでしたら調整いたしますので、言ってください」
「………あ、ちょうどいい」
 軽い水の跳ねる音がして、そして大きな水音が立つ。ようやく浸かってくれたか、とライズは衝立を外した。
 泡風呂を用意した為、ライズが世話を買って出ても、彼女の体を見てしまう心配は、ない。
「どうぞ」
「何、それ?」
「お酒です」
「ふぅん………へぇ。初めて飲む味だ」
 恐々、と言った風にグラスに口をつけて、一口含んだ後、不味いとは言わなかった姿にまた少し、死んだ主をライズは思い出していた。


 風呂から上がったユリは、流石に疲れたのか、すぐにベッドに潜り込むと、穏やかな寝息を立て始めた。
 ずれた布団を掛けなおしてやり、視線を落とす。
 こんな風に、主も眠っていたのだ。
 もう、二度と、起きることはないけれど。
 そう思うと、心の内側から、何か、得体の知れない黒いものが、浮かび上がってくる。
 一体、この少女は何故、自分の前に現れたのだろう。何故、姫が死なねばならなかったのだろう。
 何故、姫が死んで、この少女は生きているのだろう?
 どす黒い、殺意にも似た感情が浮かび上がり、細い首筋へと手を伸ばしていた自分に、我に返る。
 その瞬間、思い知らされた。
 自分は、姫が死んだという事実を、未だに受け入れられてはいないのだ、と。












2013/9/28初出