空になっているベッドを見て、ライズの背に戦慄が走った。 いない。 まだ病み上がりで、そう遠くへ行ける体だとは思えない。だと言うのに、少し眼を離した隙に、大人しく眠っていたはずの姿が失せていた。 今、彼女は正式に主が客分として扱っている。その客の姿が失せたとなると、世話をしている者達が責を問われようし、又、動き回れば彼女自身の怪我にも負担がかかる。 急いで身を翻し、ライズは屋敷の中を走り回った。 緑色の庭に、黒色の犬。低く身を構えて、今にも飛び掛るように、鋭い牙を剥き出しにしている。 「いけない」 ライズは、犬を止める為に指を口元へと運んだ。指笛である。だが、ライズが指笛を吹くよりも先に犬が二匹、じり、と後退した。そして、その場に尻を落ち着けてしまう。 そして、二匹の犬の横を、風が吹きぬけていく。すると、犬の頭が下がり、その場に体を沈めてしまう。 「何故?」 犬は、屋敷の者にしか懐かない。それも、指笛であれば、ライズの物にしか反応しないのだ。それが、屋敷の者でもなく、指笛でもない何かに、反応して大人しくなった。 「ユリ?」 犬の前に、ユリが立っている。その顔を見て、ライズは肩を震わせた。 口元に笑みを刷き、鋭い視線で犬を睨んでいる。その、殺気を籠めてでもいるような視線に、犬は服従したのか? ユリの手が伸び、一匹の犬の頭を撫でる。すると、その体に顔を埋めるようにした。 「あ~もふもふ。にょろみてぇ」 つい数秒前までの表情とは打って変わった柔和な、緩んだとでも言っていいような表情で、ユリの白い手が犬の背中を撫で始めた。 がっしりと犬を抱きしめるように張り付いてしまったユリを、どうにか説き伏せて部屋へと戻ってもらうまでに、ライズはかなりの時間を要した。 医師に許されたのは入浴までで、出歩いたり犬と戯れたりなど、怪我の状況を考えると難しいはずなのだが、当人は何処吹く風で、平気で姿を晦ましてしまう。その都度、ライズを含め、数人の使用人がその姿を探す羽目になってしまうのだが、その苦労を、探される側は分っていないようだった。 「怪我は完治したわけではありません。あまり遠くまで足を運ばれるのは………」 「遠く、って、すぐそこじゃん。こっから見える庭だぜ?遠くないだろ」 「今はまだ病み上がりなのだと、ご理解ください」 「つまんねぇの。ところでさ」 ベッドの上に胡坐を掻いて座り込んだユリが、顔を上げる。 「はい?」 「何で此処の連中って、俺を見ると逃げるみたいな態度取るんだ?」 「え?」 「逃げる、って言うか………視線を逸らすって言うか………何て言うんだろうな、ああいうの………見ちゃいけないものを見た、って言う態度………ああ!まるで、死んだ人間でも見て怯えるみたいな」 「っ………」 良い例えを思いついた、と言わんばかりのユリの笑顔に、ライズは拳を握り、震える腕を叱咤するように、口元で微笑んで見せた。 「屋敷の者がそのような失礼な態度を取ったのであれば、私から謝罪させて頂きます」 頭を下げ、上げると、睨みつけるようなユリの視線に、射抜かれた。 「俺のこと、なめてんのか?」 「は?」 「誰が謝罪しろ、って言ったよ?俺、そういう誤魔化し方って大嫌いなんだよな」 射抜く視線は、まるで、断罪するような鋭さで、まるで、あの時、ライズを問い詰めた時の姫のようだった。 「俺は、何でそういう眼で見られんのか、って聞いてんだよ。その筆頭がてめぇだよ。何処見てんのかしらねぇけど、俺の事なんざ、一度もまともに見てねぇだろ」 「そのようなことは」 ない、とライズは言えなかった。 そして、言葉を探すライズの横を、止める間もなく、ユリはベッドから飛び降りるとすり抜けて、部屋を出て行った。 もうすぐ、家庭教師が来る時間だと言うのに、主の姿は何処にも見当たらなかった。勉強が嫌いなわけではない。ただ、じっとしているのが苦手なのだろう。それでも、態々足を運んでくれる家庭教師を待たせるわけにはいかない。 逃げるとしたら、隠れるとしたら何処にいるか………今までの主の行動を思い出しながら、ライズは屋敷の内外を歩き回り、ようやく薔薇園の中にその姿を見つけた。まだ、薔薇は咲き始めていない。蕾が膨らみ始めた季節だ。 ライズが声をかけようと口を開けた時、細い腕が伸びて、蕾の一つを握り潰すように掴むと、枝からもぎ取った。 「姫?」 一つ、二つと、手近な、目に付く蕾を、容赦なくもぎ取っていく。その、尋常でない様子に、ライズは駆け寄って腕を掴んだ。 「姫!何をなさっているんですか?」 掴んだ細い手首の先、もぎ取られた赤い蕾が掌から幾つも零れ落ちていく。棘にも触れたのか、指先に細かい傷もついていた。 「すぐに手当てを………っ」 傷ついた手の状態を見ていたライズが顔を上げると、眼の前には、今にも眼の淵に溢れた涙を溢れさせんとしている主の顔があり、ぎょっとした。 「ひ、姫、どうなさったのです?痛いのですか?何かありましたか?」 明るく、元気で、泣いた姿など幼い折にしか見たことの無かったライズは、戸惑った。 一体、何が、主を悲しませ、大好きな薔薇を、花咲かせる前に摘ませる暴挙に出させたのだろう。 「………私に、縁談があるのですって」 「え?」 太く、重い、毒のような何かを打ち込まれた気がして、ライズは言葉を失った。 「嫌よ………私は、結婚なんてしたくない」 「………姫………で、ですが、姫は、旦那様にとって、たった一人の肉親です。姫の望まぬことを」 「婿を、取って、跡継ぎに、するらしいわ」 「そ、れは………」 確かに、それしか爵位を維持する方法はないだろう。女性が爵位を継ぐことは出来ないのだ。 だが、それは……… 「お父様は、話を進める気なのよ」 喜ばなければいけないことだ。主の縁談というのは、家にとっても、その家に仕える者にとっても、安寧を齎すことだ。 けれど……… 「嫌、絶対に、嫌!」 「姫!」 掴まれていた腕を振り払い、薔薇園の中を駆けていく後姿を追いかけ、すぐに追いついて腕を掴む。 「姫、どうか、まず、手当てを」 混乱している。いや。自分が混乱して如何するのだ、自分はただの従者だ、まず喜ぶべきではないのか………ライズはそう考え、必死に笑顔を作ろうとした。けれど、それは失敗し、あまつさえ、細い体を、腕の中に囲っていた。 「ライズ?」 耳のすぐ側で小さな声がして、ライズは吾に返ると細い体を引き離した。 「も、申し訳ありません!すぐ、手当てを致しましょう」 自分は何をしているのだ。主に対して取るべき態度では到底ない。許されないことだ。 けれど、次の瞬間、細い腕が伸びて、ライズの首筋に絡んだ。 ![]() 2013/10/19初出 |