そのことに才蔵が気づいたのは、甚八が幸村を殴り、上田の地を去ってから、三日後の昼のことだった。 そういえば、あれ以来、城内がやけに静かだな、と。 緊張が城内をくまなく覆っている、という静けさではない。かといって、穏やかさに包まれているというわけでもない。息を潜めている、とでも言うのが、一番近いだろうか。まるで、互いの腹の底、心の内側を覗き見ようとでもしているかのような、静けさ。 だが、それとは違う、奇妙な違和感を覚えて、才蔵は屋根の上で上半身を起こした。 視線を、遠くから近くへと移して、はたと気づく。 鎌之介が、いない。 毎日、毎日、飽きもせず、才蔵が振り切ろうが穏形しようが、しつこく追い掛け回してきていた鎌之介の姿を、ほぼ丸三日、見ていないのだ。 静かなのも、道理だった。 恐らく、才蔵が自身の内にあった苛立ちを消化できずに、真正面からぶつけたあの時以降、顔を合わせていない。 あの程度で大人しくなるような性質だとは思っていなかったが………一応、詫びを入れておくべきか、と、才蔵は屋根から飛び降りて、鎌之介の部屋へと向かった。 だが、部屋の中には誰もいなかった。ならば、森か城下町かと、探し回っては見たものの、目立つあの紅い頭を見つけることは出来なかった。 城へ戻り、手当たり次第城内の者に鎌之介を見なかったかと聞いても、返って来るのは「見ていない」の返事ばかり。 流石に奇妙に思い、勇士のほぼ全員に声をかけたが、返って来たのは他と大差ない答えだった。 「見てないよ?」 「見ておらん」 「否」 「見ていないわね」 「見てはいないな」 「見ていませんね」 「見ておらんなぁ。振られたか、才蔵?」 余計な一言を付け加えたのが誰かは、言う必要も無いだろう。因みに、弁丸は姿が見つけられず、癪に障るので半蔵には声をかけていない。聞いた所で、真っ当な答えが帰ってくるとは、到底思えなかったからだ。 だが、才蔵の期待していた答えは、思いもよらない場所から齎された。 それは、城内に住まう者、全ての食事を預かる台所の女中の一人で、城へ上がってまだ間もない“はこべ”という少女だった。 曰く。此処数日、鎌之介が部屋に戻った様子も、城内で見かけることもなかったので、食事の膳を一度も用意していない、という話だった。 突然、鎌之介が姿を消した。だが、その原因は自分だろうと、誰が分からずとも才蔵自身が分かっていたため、あえてそれ以上を誰かには告げなかった。 何処をどうやって探したものか………鎌之介の行きそうな場所など知らないし、帰る場所だってないだろう。虱潰しに彼方此方を探すほど才蔵は暇ではなかったし、鎌之介の気質を考えれば、その内ひょっこりと姿を見せるだろうと、結局、才蔵はその後更に一日、鎌之介を探さなかった。 船へ帰る、と宣言した甚八が再び姿を現したことに誰もが驚き、そして、その行動に誰もが声を上げた。 「立てよ、才蔵」 いきなり、拳で左頬を殴られて、流石の才蔵も膝をついた。甚八の拳は、重かった。 「甚八、今度は何を!」 筧が庭へと降り立ち、止めに入ろうとするのを、甚八が手を上げて遮る。 「何で殴られんのか、わかってんだろ?」 「………」 「あんなずたぼろに女傷つけやがって。頭冷やしやがれ!」 「女?」 顔を見合わせて、皆が皆首を傾げる中、才蔵がゆらりと立ち上がる。 「言われなくても、わかってるよ」 「分かってて、傷つけたってのか?はっ!いい身分だな、お前さんは!」 更に一発、才蔵の左頬に拳が打ち込まれるが、流石の才蔵も、今度はその場に留まり、膝はつかなかった。 「あいつは俺が連れて行く。ああ、迎えには来なくてもいいぜ。海の方が、あいつも気が楽だろうよ」 言うなり、甚八は背を向けて、来た方向へと帰っていく。 才蔵は小さく舌打ちし、足音荒く、自分の部屋へと引きこもった。 女の扱いは、心得ているはずだった。いや………正確には、女を利用する手立ては、ということだろうか。女を使い、女を利用し、陥落させて、必要な情報、有益な情報、果ては暗殺する標的の命までもを、奪う。忍として、才蔵が知っている女の扱いは、そういう扱いだった。そのことに必要な手練手管は教え込まれていたし、使うことに躊躇いなど抱いたことは、一度もない。 なのに……… 今更、一人の女に、振り回されている。 すぐに、帰ってくると思った。少し拗ねて怒って、隠れているだけなんだろう、と。その内に、何気ない顔で、いつものように、自分の後ろを追い掛け回してくるだろう、と。 それが、もう、上田からは去ったという。甚八が連れて行く、と。海の方が気楽?それはそうだろう。あいつは元々山賊だった。誰かに仕えたり、命令を聞いて動いたり出来る性質じゃない。才蔵が何を言おうが、幸村が何を言おうが、まともに聞いた例など、数えられるほどあるかないかだ。そんな人間が、いつまでも一所に留まって、生活できるわけがない。 「………あいつの、ためかもな」 流れていく風のように、一所には留まらない生き方が、本来の生き方なのだ。ならば、此処に縛り付けるよりも、自由にしてやった方がいいだろう。 どうせ、近い内に戦も始まる。自分は、伊佐那海を、上田を守ることで精一杯になるだろう。構っていられる余裕など、ないのだ。 そうだ。自分は、幸村に仕える忍だ。忍の命は駒だ。幾らでも挿げ替えの利く、駒。使い捨てにされる命だ。駒は駒らしく、命令を聞いていればいい。 駒が人間を愛することなど、出来るわけもない。そんなのは、夢のまた夢だ。 何をするでもなく、部屋の中央に突っ立ったまま、一人思考に沈んでいた才蔵の耳に、勢いよく襖が開け放たれる音がする。 その音に振り返ると同時に、右頬が殴られた。 「な………なっにしやがんだ、てめぇ!」 何でこう、立て続けに殴られなければならないんだと、才蔵が殴ってきた相手に対して拳を振り上げると、その手を掴まれて弾かれたかと思うと、足払いをされて畳へ叩きつけられる。 「っの野郎!喧嘩うってんのか!」 「お前、馬鹿」 「あぁ?」 佐助の鋭い視線が、見下ろしてくる。 「鎌之介、泣いてた」 「え?」 「我が声かけても、聞こえてなかった」 「っ………」 「おまえのせい。何とかしろ」 言うだけ言うと、襖を閉めて出て行ってしまう。 「何、なんだよっ!」 どいつもこいつも、好き勝手言いやがって………俺だって、傷つけようと思って傷つけたわけじゃ、ねぇんだ……… 小さな呻き声は、誰に聞かれるともなく、消えていった。 そして、その翌日早朝、才蔵は幸村から僅かばかりの路銀を渡され、取り戻して来い、と背中を押されることになる。 ![]() 2013/5/8初出 |