*蠱失〜中編〜*


 右手に酒を、左手に肴の乗った皿を持ち、右足で扉を開けて、閉める。室内に置かれた机の上にそれらを置き、部屋の隅を見て、溜息をついた。
「ヴェロニカ」
 名前を呼ぶと、艶やかな毛並みの黒豹が、疲れたような表情で顔を上げる。その背中を乗っ取るように、紅い頭が乗っている。
「鎌之介。そろそろヴェロニカを離してやってくれねぇか?」
 声をかけても、ヴェロニカの背中に額をつけたまま、子供のように、頭を左右に振る。
「だったら、せめて怪我の手当て位させろ、ってんだ。いつまでその格好のまんまでいるつもりだ?」
 紅い髪は乱れ、所々傷ついた肌には乾いた血がこびりつき、服も破れ、無残な様相のまま、既に数日が経過している。その間、鎌之介は何も………水すらも、口にしていない。そして、眠りもしていない。このままでは、体が先に音をあげるだろう。
 流石に、この辺りが限界だろう。
 深く息を吐き出して、甚八は持ってきた酒瓶を掴むと、鎌之介の傍らに膝をつき、無理矢理に顔を上げさせた。
 肌は色を失い、眼の下には明らかに濃く隈が縁取っている。
「なん、だよ?」
「寝ちまえ、とりあえず」
「へ?っ!」
 酒瓶から、一口酒を煽り、口中に含んだまま、鎌之介の唇を奪う。
 細い喉が鳴り、酒を飲み下す。何日も飲まず食わずでいた体に、舶来の酒はよく効くだろう。
 程なくして、微かな寝息が聞こえてきた。
「さて、と。今の内に手当てと着替えさせちまうかな」
 ようやく眠りに落ちた細い体を抱き上げ、寝台の上へ乗せてやると、ようやく自由になれた、とでも言いたげにヴェロニカが立ち上がり、前後の足を伸ばして、伸びをした。


 揺れている、という感覚に引きずられるように眼を覚まし、見慣れない木目の天井らしき物を視界に捉えて、暫くうつらうつらとしていた鎌之介は、ようやく状況を理解して体を起こした。
「船の上、だ」
 甚八に声をかけられ連れて来てもらった、彼の船の中。揺れているということは、海上に出たのだろう。
 布団から抜け出て寝台を降り、部屋の扉を押し開けると、体を包み込むように、潮の香りが海の気配と共に纏わりついた。
「おう、起きたか?」
 聞きなれた声に振り返れば、右手に酒瓶、左手に器を持った甚八が、口元に煙草を咥えて立っている。
「無理矢理寝かせやがったな?」
 見上げるようにして睨みつけても、甚八は何処吹く風で、にんまりと笑うだけだ。
「美味かっただろ、あの酒」
「味なんて、わかんねぇよ」
「だろうな。で、少しは落ち着いたか?」
「………わかんねぇ」
「そうか。飯、食うだろ?」
「そういう気分じゃねぇんだけど」
「気分じゃなくても食っとけ。食っとかねぇと、いざって時に力出ねぇぞ」
 甚八が左手に持っていた器に酒瓶の中身を注ぎ、眼の前に差し出してくる。仕方なくそれを受け取って一口飲み干すと、腹の底が、大きな音を立てた。
 聞こえただろうか、と見上げると、甚八が肩を震わせ、大声で笑い出す。
「いいじゃねぇか!腹が減るってのは、元気な証拠だ!」
 力強く頭を撫でられ、鎌之介は反射的に足を振り上げて、甚八の右足を蹴った。


 眼の前に並べられた食事に、不覚にも、数日何も口にしていなかった腹の底は正直に答えるし、反射的と言ってもいいだろう、手は素直に箸を持っていた。
「で、一体何があったんだ?」
 机を挟んだ正面に座った甚八は、食事は取らずに、酒だけを口にしている。既にその足元には、酒瓶が一本転がっていて、二本目に突入していた。
「しらねぇよ」
「はぁ?知らない?んなわけねぇだろ」
「わかんねぇよ。わかんねぇから、むかつくんだ」
 見たことの無い形をした魚に箸を伸ばし、恐る恐るその腹を割ってみれば、何と言うことはない、白身が出てきた。
「………海賊も、おもしれぇかもなぁ」
「お?その気になったか?俺はいつでも大歓迎だぜ」
 空になっている鎌之介の湯飲みの中へ、酒ではなく茶を注いでやる。
「どうせ、才蔵はもう、俺の事なんて、いらねぇんだろうし」
「才蔵がそう言ったのか?」
「そういう言い方じゃなかったけど、ありゃそうだろ。俺じゃ駄目だとさ」
「才蔵は、言葉が足らねぇんだよ。つか、あそこの連中はどいつもこいつも、言葉が足りねぇよ」
「言葉なんて、いらねぇだろ?」
「ん?」
「感じたことを、感じたままに行動すればいいんじゃねぇの?一々言葉にしてから動く必要とか、なくねぇ?」
「お前さんの方がよっぽど男前だ」
 甚八が手を伸ばして、小さな頭を撫でてやると、箸を持っていない方の手で弾かれる。
「そうだ。明日、一度船を港に寄せる。入用なもんがあれこれあるからな。降りるか、お前さんも?着物がもう一着くらいないと、不便だろ?着の身着のままで来ちまったしな」
 才蔵と戦ったせいで破れ、血の付着した着物は、いつの間にか剥ぎ取られていて、今鎌之介が着ているのは、丈を詰めた男物の着物だ。詰めているとはいっても、袖や腰の部分が大分、緩い。
「行く」
 頷いた鎌之介は、骨と白身を分離させる作業に飽きて、魚の尻尾を掴むと箸を置いて、直接噛り付いた。


 船が寄せられた港は、そこかしこに人が溢れ、売買をする者達で賑わっていた。山で育ち、町というものをあまり身近に感じたことがなかった鎌之介にとって、一度訪れた京の都や、上田の城下町とも全く違う雰囲気の港町は、興味を引かれるものばかりだった。
 新鮮な海の幸、船で運ばれてきた見たことも無い渡来の品々、活気溢れる取引の声に、ふらふらと彼方此方の店に首を突っ込もうとする鎌之介を止めるのが、もう幾度目だろうかと、甚八は鎌之介の首根っこを掴んだ。
 世間知らずなところがありそうだとは思っていたが、正直此処までとは思わず、苦笑するしかない。
「は、な、せ、よ!」
「先にお前さんの着物買うんだよ。店は後で幾らでも見ればいい」
 このじゃじゃ馬娘め、と心中で毒づくが、無邪気にはしゃぐ姿は、少し無理をしているようにも見えて、昨夜もまた眠れなかったんだろうと、溜息をつく。
「ほら、行くぞ。もう少しで反物屋があるはずだ」
 何だか、娘を持った親父の気分だなぁ、などと甚八は思い、一張羅とはいかないが、確りした着物を買ってやろう、と思った。


 港に、見慣れた船が停まっている。ようやく追いついた、と、才蔵は額の汗を拭った。
 甚八の船を追って来たはいいものの、船を修理するからと、寄せていた港に船の姿はなく、西へ向かったという情報を信じて、港を虱潰しに見てきたのだ。
 早く、鎌之介を連れ戻して、上田に帰らなければ。戦は、何時始まってもおかしくないのだから。
 けれど、船の中には、鎌之介の姿も甚八の姿もなく、数人の船員が残っているだけだった。












2013/5/8初出