強い力で腕を掴んで引くと、横合いからの突然の力に驚いたのか、細い体は何の抵抗もなく、才蔵の体に寄りかかるような姿勢になり、見上げてくる双眸は、丸く見開かれていた。 けれど、そんな瞬間は束の間で、一拍の間を置いた後に才蔵へと向けられたのは、鋭く細められ、悲しみと怒りを綯い交ぜにしたような視線だった。 人いきれでうんざりするような中から、目立つ紅い髪を見つけて咄嗟に腕を引いたが、もう少し考えて声をかけるべきだったか、と才蔵が気づいたのは、腕を振り払われ、眼の前から脱兎の如く逃げ去られてからだった。 「なっ………」 「おーおー。すげぇ逃げっぷりだな」 「甚八!」 悠長に、飯屋の暖簾を潜って出てきた甚八が、逃げ去った鎌之介の背中を見つめて呟いた。そののんびりとした姿が頭に来て、咄嗟に腕を振り上げたが、甚八がついた溜息に、腕を下ろす。 「追いかけなくていいのか?見失うぞ」 「くっそ!あの、馬鹿!」 忍の足に勝てると思うなよ!と心中で毒づいて、才蔵は走り出した。 どうして、足が動いているのか。前へ、前へ、ただ、進んでいる。足を動かして、腕を振って………才蔵から、逃げている。 逃げるつもりは、なかった。けれど、会いたいとは思わなかった。 だって、嫌われたのだ。自分は、弱い。弱くて、才蔵の相手にならない。だから、きっともう、いらないんだろう。 才蔵を、怒らせる気などなかった。ただ、いつものように戦って、楽しめれば、それでよかったのだ。 きっと、また怒られる。勝手に上田を出た自分を、連れ戻すのだろうか。 いや、そもそも、才蔵がいたから、才蔵と戦えて楽しいから上田にいたのだ。 でも、もう、それが、ないのなら……… 「や、べ………」 呼吸が上がり、胸が苦しくなる。昨晩も結局、まともに眠れなかったのだ。船の揺れに意識を預けていれば眠れるかと思ったが、思い出すのは怒った才蔵の顔と、ぶつけられた言葉だけだった。 「はっ………くっ………」 ああ、如何しよう………本当に、苦しい。 足が縺れ、走ることが出来なくなり、鎌之介の体はそのまま、土の上へと傾いだ。 「鎌之介!」 ………何で、まだ、名前を呼ぶんだ。いらないなら、捨て置いてくれれば、いいのに。 倒れこんだ細い体が、土の上に叩きつけられる前に抱きとめて、才蔵は長く、安堵の息を吐いた。 賑わう町を抜け、田園風景が続き始めた畔道で、追いついたと思ったら、突然前を走っていた体が倒れこんだのだ。驚くよりも先に体が動いていた。 「くそっ!何やってんだ、俺は!」 血の気が引くほど追い詰めて、走らせて、挙句倒れさせて………そこまで、自分の言葉が、行動が、鎌之介を追い詰めているとは、思っていなかったのだ。 いなくなるまで気づかず、いなくなってもすぐに探さなかった自分を、鎌之介は責めてもいい立場にある。けれど、逃げた鎌之介を見て、理解した。 鎌之介は、自分自身を責めている。だから才蔵から、逃げた。 受け止めた体を一度強く抱きしめて、抱き上げる。 癪に障るが、甚八の船の一室でも借りて、早く、休ませてやりたかった。 何かくすぐったくて瞼を押し開けると、眼の前に黒い毛並みがあった。それが、つい数日前も顔を埋めていた黒豹の柔らかい毛だと気づいて手を伸ばす。耳をそよがせるように動かした獣の頭に、顔を埋めると、何故か、落ち着くような気がした。 「眼ぇ、覚めたか?」 降って来た声に驚いて、獣から手を離して視線を動かすと、獣の向こう側に、才蔵がいた。床に座り込んで、茶を啜っている。 鎌之介が手を離すと、まるで自分の役目は終わったとばかりに、ヴェロニカは寝台の上に乗せていた頭を上げると、足音も立てずに部屋を出て行った。 扉の向こう側から、相変わらず潮の香りが入り込んでくる。波の音もした。そこで、ようやく鎌之介は、自分がまだ甚八の船の上にいるのだと気づいた。 「お前、寝てねぇのか?」 「え?あ………才蔵には、関係ねぇ」 「関係あるだろ」 「ねぇよ」 「寝てねぇ上に飯もまともに食わねぇで走ったら倒れるに決まってんだろうが!」 半分体を起こしかけた状態で突然怒鳴られて、鎌之介は立ち上がった才蔵を見上げた。 「あー、くそっ!」 頭を掻き、大股で近づいてきたと思うと、腕が伸びてきて鎌之介の肩を抱き、引き寄せる。 「悪い」 「え?」 「悪かった。お前が、んな風に俺から離れるとか、考えてもいなかったんだよ」 「才蔵?」 右腕だけが鎌之介の肩を引き寄せていたのに、いつの間にか、左腕が背中に回り、力を籠めている。 「お前は、俺が何言っても、何しても、離れたりしねぇって、そんな風に驕ってた。あんなの、本心じゃねぇよ。ただの、八つ当たりだ。悪い」 「八つ当たり?」 「気にくわねぇことがあっただけだ。それを自分の中でうまく消化できねぇで、お前に当たっただけだ」 「………俺、悪くねぇの?」 「悪くない。だから、急にいなくなったりすんな」 背中に回されていた手が動いて、頭を撫でる。子供をあやすような仕草だと思ったが、鎌之介は抵抗せずに、その大きくて温かい手に、頭を預けていた。 腕の中から寝息が聞こえてきて、眠ってしまった体を寝台に横たえてやる。自分の態度のせいで、ずっとまともに眠れていなかったのだろう。首元まで布団をかけてやり、頭を撫でてやる。 「で、仲直りは出来たのか?」 「覗いてんじゃねぇよ」 酒瓶片手に、軽く隙間を開けた扉の向こう側から、甚八の声がした。立ち上がって扉を全開にすると、案の定、口角を上げてにやにや笑う姿があった。 「甚八、本気で戻らないのか?」 「戻らねぇよ。面白くない場所にいるほど、俺は堅気にできてねぇからな」 「そうか」 「ま、鎌之介は帰るだろ。お前さんが上田にいるんならな」 「連れて帰るに決まってんだろ。あいつは俺のなんだよ」 「ほぉ。言い切ったな」 つい数日前、自分に上田で殴られた時とは顔つきが違う、と甚八は心中で笑んだ。 「ま、これ以上手出しする気はねぇよ。馬に蹴られて死ぬのは御免だ。上田に一番近い港まで送ってやらぁ」 「悪いな」 甲板に出て行く甚八に背を向けて、才蔵は室内に戻ると、穏やかな寝顔で眠る鎌之介の前髪に触れて、そのまま指先を滑らせると、柔らかい唇に触れた。 「お前が言ったんだぞ?俺は、お前のだってな。簡単に、手放すなよ?」 自分は、手放してやる気はないのだから。 ![]() 結局最後の最後まで。 才蔵が何だか情けない感じに(苦笑) そして、甚八は最後まで格好いい感じに(苦笑) あれ?これ才鎌だよね?っていう感じになってしまいました。 でも、書きたいことは書けたので!!いいとします!! 2013/6/1初出 |