覚束ない足取りは、何処を目的とすることもなく、ただ前へ、前へと、向かっている。引きずる鎖の繋がった先には鋭い刃が鈍い色を放ち、微かな金属音を立てる。 嗚………自分は、如何して此処にいるのだろうか。此処で、一体何をしていたのだろうか。何処へ行けば、何をすれば………いや、そもそも、自分は、何だっただろうか。 傷口から零れる血も、眦から零れる涙も、それらをそれと認識することなく、細い体はゆっくりと、ゆっくりと、進む。 男達は、両の手で両の耳を塞ぎ、固く、固く瞼を下ろして眼を閉じ、漆黒の闇の中に体を横たえて、祈るように強く念じる。 眠れ、眠ってしまえ、そうすれば、何も聞かず、何も知らずに済む、と。 幾日か前より、夜毎繰り返し聞こえてくる狂気染みた嬌声は、戦へと向かう数多の兵士達にとって、毒になり始めていた。 夕刻を過ぎると、誰一人として、近づくことが許されない本陣の陣幕の内で、一体どのような艶事が行われているのか、気になるのと同時に、知れば命はないのだと、誰もが弁えていた。 男の吐き出した精を身体の最奥で受け止めた女の細い左足が、強請るように男の均整の取れた右足に絡まり、細い腰が揺れる。 白い指先が、誘うように男の黒い髪に絡められ、広い背中へと辿るように降りていく。その腕を掴み、敷布の上へ縫いとめるように押さえつけた男の腕は、そのまま乱暴に女の柔らかな胸を揉んだ。 「っ!」 「ああ。また、締まったなぁ」 男を喰い続ける女の顕著な反応に、低く笑いを零して、男は腰を引いた。 篝火の明かりがかろうじて届く陣幕の内は暗く、虫すら寝静まっているのか、音と言えば、衣擦れと女の艶めいた吐息、そして男の獣のような嘲笑だ。 細い、幼さの十二分に残る身体を無理矢理にうつ伏せにさせ、汗に濡れた髪を掴む。 「いたぶられて気持ちがいいか?」 喘ぐような呼吸の合間に、小さな笑いが零れだす。髪を掴まれて、仰け反った女の右腕が軽く前へと出されて、手首が翻った。 すると、突如空中から現れたとしか思えない黒尽くめの何者かが、地へと落ちた。 それを見咎めて片方の眉尻を上げた男が、放り出してあった刀を掴んで立ち上がり、一枚着物を掴んで女の身体へ掛けると、そのまま落ちてきた黒尽くめの姿へ近寄ると、何も言わずにその首へ刃を滑るように走らせた。 「邪魔すんじゃねぇよ」 一言とて発する間もなく首は落ち、転がって、切り離された胴は、立ち上がろうとしていた姿勢のまま、後ろへと傾いだ。 「てめぇも、余計なことすんじゃねぇよ」 「自分が、狙われていても、か?」 「忍如きにこの俺様が遅れをとるとでも思ってやがんのか?」 「まさか」 掛けられた着物に袖を通すでもなく、くるりと仰向けになった女の視線が、空を見上げる。その視界を遮るように、男が顔を近づけた。 「まだ、たりねぇだろ?」 「………血の匂いは、駄目だな」 瞬きをした女の眼の色が、変わる。 「興奮する」 「はん。とんだ変態だな」 刀を一振りし、刃についた血を振り払って鞘に納め、放り出す。 「ったく。どいつもこいつも使えねぇ。こんな所にまで忍び込ませやがって」 「あんたが人払いするからだ」 「一端の口利くようになったじゃねぇか。死にかけてた女の科白とは思えねぇな」 「あんたがこうしたんだろ」 「ああ。そうだな」 胡坐を掻いて座った膝の上に女を乗せ、細い首筋に噛みつく。 「おい」 「俺の手でてめぇは蛹から蝶になった。流石の俺も予想外だぜ」 「蛹のままのが良かったか?」 「ふん。どうせ愛でるなら蝶がいいに決まってる」 着物を引き寄せ、女の肩に掛けて腕を通させる。 「気が削がれた」 「珍しい」 「明日は、てめぇにも働いてもらうぞ」 帯は締めず、女を膝から下ろして、横になる。自身は着物一枚羽織らずに。 「できねぇとか言うんじゃねぇぞ」 「何を疑ってんだか」 「くそっ」 細い女の身体を、閉じ込めるように腕の中にきつく抱きしめ、男は瞼を閉じた。 手に入れた、たかだか一羽の蝶を、手放したくないと思っている自分が、どうしても信じられなかった。 女の腕が男の背中へと伸び、指先に当たった一枚の着物を引き寄せて男にかけてやった後、まるで慰めるように腕に添えられた。 肩口できつく結われた髪が揺れ、白い衿にかかる。着物の裾をたくし上げ、動きやすいように帯の間に挟み、研いだ鎌を背中に隠すように帯に挟む。そして、腰には太刀を。 「段取りは覚えたか?」 「そう何度も確認すんなよ。分ってるって」 「へますんじゃねぇぞ」 「しつこい」 言いながら、憮然とした表情で獣の毛皮の上へ腰を下ろした男の横に立ち、軽くその頬を抓ってやる。 「てめぇこそ、へますんなよ」 「誰に向かって言ってやがる」 頬を抓ってきた女の指を掴んだ所へ、陣幕の外から声がかかる。 入れ、と声を掛けると、一人の男が進み出て膝を折る。 「兵の支度が整いました」 「おう。暫くは待機させとけ」 「待機、でございますか?」 「ああ。まずは、こいつに行かせる」 「こいつ?」 言われて、男は顔を上げ、瞠目した。 「お主………」 「あん?何だ、信幸、てめぇこいつと面識があんのか?」 「………少し、ばかり」 「ふぅん………まあ、いい。だからって段取りが変わるわけでもねぇ」 「じゃあ、俺は行っていいな?」 「ああ。くたばるなよ」 「俺がくたばったら捨てとけ」 ひらりと手を振って、細い身体が陣幕の外へと出て行く。それを確認して、下がれ、と言うと、男は一人で眼を閉じて、時が来るのを待つことにした。 腕を伸ばし、細い肩を掴む。 「待て。貴様、幸村の所にいた者だろう?」 「あぁん?」 不躾に伸びてきた手を払いのけて、正面から見上げて睨みつける。だが、男は気にした素振りもなく、見下した。 「何故、秀忠様と共にいる?上田は如何したのだ?」 「しらねぇよ。俺はあいつに拾われたから此処にいるだけだ」 「拾われた?」 「ああ。そういえば、てめぇには借りがあったな」 「借り?っ!」 瞬きをする間もなく、男の身体は鋭い痛みに襲われ、膝をついた。気づけば、腕、足、頬、と至る所に無数の擦過傷がついている。 「頭押さえつけてくれた礼だ。返しとくぜ」 背中を見せ、悠々とした足取りで歩いていく姿に声をかける。 「ま、待て!」 だが、その声は森の中で霧散して、去っていく背中を止めることは出来なかった。 ―逃げろ、幸村。何か………得体の知れぬ何かが、動き出している! 2014/5/24初出 |