*白刃〜前編〜*


 小さな、傷ついた白い手が、薄汚れた私を救い上げる。名もなく、忘れ去られ、朽ち、風化していく筈だった、私を。
 ああ。私は、この子供のために、何でもしよう。この身が幾ら汚れようと、血に塗れようと、壊れるまで、この子供が望むままに。


 いつから降りだしたのか分からない、篠突く雨が、長く紅い髪を濡らす。たっぷりと雨を吸い込んだ衣が肌に張り付いて、細い体の線を、煙る景色の中に浮かび上がらせる。だが、深く濃い緑の森の中で、その姿を目撃する人は、一人もない。
 足元は覚束なく、右へ、左へと、力の入っていない体は不安定に揺れながら、前へと進んでいく。
 どれだけそうして歩いているのか、紅い髪の合間から覗いた双眸に、光はない。
 そして、ついに、長い草に足を取られた体は、前へと進むことをやめて、その場に崩れ落ちた。
 ぬかるんだ土の上へと倒れこんだ体へと、容赦のない雨の礫が、降り続ける。
 起き上がる気力もないのか、光のない双眸は、とうとう、瞼の下に隠れた。
 浅い呼吸が、青ざめた唇から、微かに零れている。このまま放っておけば、寒さと飢えで、命を落とすことにもなりかねない。
 そうなれば、私という存在は、一体全体、如何なってしまうと言うのだろう。
 如何すればいい。如何すれば、私はこの子を助けられると言うのか。ただ、ただ、ひたすらにこの子の傍にいただけで、私がこの子にしてやれたことなど、何一つなかったというのに。
 人は、死に逝くものだ。けれど、こんなにも早くに、死んでよいはずがない。まだ、まだ、この子には、長い生が用意されているはずなのだ。
 助けなくてはいけない。この子は、私を見つけ、救ってくれたのだから。
 たとえ、この身が、どうなろうとも。
 気づけば、私は見下ろすことなどなかったこの子を、見下ろしている。
「ああ」
 声が、零れる。耳が、音を拾う。
「これが、人の、身」
 腕。胴。足。指先、が触れる、首、頬、耳から、髪。
 雨が、私の身にも降りかかり、打ちつけていく。
「これが、雨」
 暑さや寒さ、熱や冷たさなど感じたことなどなかったのに、何故か、打ちつける雨を、冷たいと感じる。
「冷たい」
 何故、そう思うのかは分からない。けれど分かる。そして、これが、人の身にとってはよくないことだということも。
「助けなくては」
 今なら、今のこの身であれば、この子を助けられる。
 膝を曲げ、腰を屈め、腕を伸ばして、細い体を抱き上げる。
「何処か、雨を、避ける場所を」
 曇天の空から落ち続ける雨は、止む様子もなかった。


 雨の当たらない場所をようやく見つけ出して、土の上ではあるが、濡れそぼった細い体を横たえる。
「如何、すれば………」
 人は、雨に濡れたら如何するのだ。この子はいつも、楽しそうに雨に濡れていて………そう、その後は、必ず濡れた場所を拭っていたはずだ。
「乾いた布………」
 そんなものは、持っていない。この子も、私も、雨に濡れてしまった。衣はたっぷりと雨を含んで、重たくなっている。
 濡れたまま、と言うのがいけないのだろうか。ならば、濡れた衣を脱がせ、絞ればいいのか。けれど、雨の止む気配はない。絞っただけでは、衣は乾かないだろう。
 衣を乾かすために必要なのは、含んだ雨を飛ばすほどの、熱。
「熱………は、火か」
 火を熾すには、火種がいる。燃やすための木々もいるだろう。
 青ざめた顔を見下ろして、紅い髪を撫でて立ち上がる。
「すぐに、用意しなくては」
 この子を、死なせてはいけない。絶対に。


 火を熾すために必要な、木々と火種を探して森の中を彷徨って、結局、見つけられたのは細々とした木々だけで、火種は見つけることが出来なかった。
 落胆して、一人置いてきてしまったあの子の所へ戻る頃には、既に日が傾き、暮れかけていた。
 雨の当たらないその場所は、暗く、湿っていて、決して気分のいいものではなかった。明かりもない中で、横たわっている姿を見つけて駆け寄る。
「すまない………」
 火を、熾してやることが出来ない。この子を、暖めてやらなければならないのに。雨に濡れて、寒く、凍えそうだろうに。
「それも、これも」
 全て、あの男のせいだ。この子が、今、こんな苦境に立たされているのは、あの、非道な男の。殺してやりたいと思っても、この子がそれを望まない。
 もっと、もっと、もっと、強く、あの男と対等に並び立てるだけの力が欲しいと、この子はそれだけを望んでいる。
 けれど、あの男はこの子を打ち砕く。この子の願いを、叶えてはやらない。
「忌々しい」
 あの男は、一体何を考えている。この子を如何したいと言うのだ。気に止めるつもりがないのならば、関わらなければいいものを、中途半端に関わって、挙句の果てに突き放し見捨てる。
 見ているものが、違うのか。あの男の眼には、一体何が映っている。
 暗闇の中、私に見えるのは、この子の姿だけだ。私には、この子しかいないのだ。
 そして、今のこの子にも。
「けほっ」
「え?」
 視線を下ろせば、小さな肩が震えている。そして、立て続けに幾度か、咳と呼ばれるのだろう息が、色を失った唇から零れる。
 震える瞼がゆっくりと押し上げられて、瞳が左右に揺れる。
「だ、れ?」
「気がついたか?」
「さ………い」
「え?」
 か細い声を聞き取ろうと、耳を唇の近くに寄せる。
 寒い、と小さく呟いた声には力がない。可哀想に、と憐憫の情を抱くのと同時に、体は勝手に動いて、細い体を抱きしめていた。
 人の身の、何と便利なことか。数刻前の私であったのならば、決して出来ないことだったはずだ。
 震える腕が、私の腕に添えられる。そうして小さく、あったかい、と言う言葉が聞こえた。
 そうだ。人の身は、熱を持つのだ。望むのならば、何時まででもこうして、この子を抱きしめていよう。そうすれば、少しは濡れた体が温まるはずだ。
 けれど………
「さ、いぞ」
 その言葉を聞いた瞬間、私の中で得も言われぬ感情が、憤りと共に沸きあがった。


 刃の本分とは、斬ること。
 鎖の本分とは、縛めること。
 ならば、人形(ひとがた)を得た私の本分とは、何所にある。
 何をするために、この形へと成ったというのか。
 この形に、何の意味がある。












2015/5/16初出