* 海よりも深く、溺れるように 1 *


 気温は高く、湿度は高く、人は多く、雑音も多い、真夏の屋外。そんな炎天下を何故歩いているのだと問われれば、仕事だクソッタレ、と返すしかないのが、自他共に認める社畜、観音坂独歩だ。
 それでも、シンジュク・ディビジョンのビル街でないだけましなんじゃないかと、数十分前まで思っていた自分の考えを、ゴミのように丸めて捨てたかった。
「暑い………」
 電車から降りた瞬間に、体に纏わり付くような湿気と熱気が一気に包んでくる。駅から出ても、離れて人が減っても、その状態は変わらない。
 仕事柄、幾らクールビズだ何だと口で言っても、求められるのはスーツ着用で、外で脱いでいたとしてもジャケットは持って歩かなければならないし、顧客の元へ行けば着なければいけないのが、社畜の運命だ。暑いと呟くくらい許してくれ、と言いたくもなる。
 ネクタイを緩めてはいるが、額から、首筋から、汗が伝って落ちていくのは止められない。ハンカチで拭こうがタオルで拭こうが、体内の水分が全て出て行くのではないかと疑いたくなるほど、汗は出てくる。
 顧客の元へ漸うたどり着き、エアコンの効いた部屋で話をしたのも束の間、正直それだけの話なら電話でもいいじゃないか(まあでも足を運ぶのが誠意という物の見せ方なんだろうな)と言うような内容を聞かされて再び屋外へと出た時には、見事に太陽は空の真ん中に鎮座していた。まるで、己こそがこの世の王であるかのごとく。
「クソがっ」
 毒づいたっていいだろう。どうせ、誰も聞いてやしないんだから。そんな風に思って、街の中へと歩き出す。
 早く、せめて、エアコンの効いている社屋へ帰りたい。どうせ今日もまた残業なんだ。ああ、でもその前に電車に乗らないと行けないのか。せめて座れるといいな………そんなことを考えていたら、下を向いて歩いていたにも関わらず、無造作に捨てられていた空き缶に躓いた。
 転ぶ、と思っても反射神経が暑さのせいでうまく機能しないのか、手を出そうとして出せなかった。だが、その鈍い動きに反して、独歩の体は地面にたたき付けられる事もなければ、膝をつくこともなかった。
「おい」
 上から声が降ってくる。
「あれ?」
「おいっ!」
「はいっ!」
 誰かに腕を捕まれたのだと、反射的に返事をし、自分の左腕を掴んでいる手の先を辿るように顔を上げて、独歩は息を呑んだ。
 夏に不似合いな、白い色。
「とろくさ歩いてんじゃねぇよ」
「す、す、すみませんっ!」
 傾いていた体を起こし、頭を下げる。
 白い髪、白い肌、白いシャツ、端正な顔立ち、鋭い赤い目。眉目秀麗って、こういう人の事を言うんだろうな、などと思いながら、自分を助けた碧棺左馬刻から視線を逸らす。
 そうだ。ここは、ヨコハマ・ディビジョンだった。
「何でてめぇがこんなとこにいやがる?」
「いえ、あの、仕事で」
「仕事ぉ?」
「は、はい」
 言いながら、ジャケットの名刺入れに入れていた名刺を取り出す。よくよく考えてみれば、彼と会うのは決勝トーナメントで顔を合わせて以来だ。まともに自己紹介などした覚えがない。
「………営業、ねぇ。営業できるように見えねぇんだけど?」
「ははっ………よく言われます」
 受け取って視線を落とした名刺を、てっきり捨てられるかと思ったが、律儀にもその名刺はポケットへしまわれた。
「あ、あの、碧棺さんは、どうして?」
「あん?ここは俺らのシマなんだよ。まあ、今は飯食いに来ただけだ」
「はあ。そうですか。あの、本当にすみませんでした。ありがとうございます」
 深々と頭を下げて、頭を上げた瞬間、立ちくらみのような眩暈を起こして体が傾く。
「おい。ふらついてんじゃねぇか」
 再度腕を掴まれ、倒れるのを防がれた。
「い、いえ、大丈夫で………」
「ったく。ちょっと来い」
「え?あ、あの」
「だぁってろ!」
 強く腕を引かれて、暗く細い路地へ連れて行かれる。人の通らない路地を幾つか抜けると、小さな公園が目の前にあった。
 そのまま公演の中へ入り、ペンキの剥げかけたベンチへ座らされる。
「動くんじゃねぇぞ」
「は、はい」
 五分と待たずに座っていると、目の前にスポーツ飲料の入ったペットボトルを差し出された。
「あの?」
「目の前で倒れられちゃ迷惑なんだよ」
「す、すみません」
 ペットボトルを受け取り、キャップを開ける。そういえば、駅から出てこちら、何も口にしていなかった、と気づくと、酷く喉の渇きを覚えて、半分ほどを一息に飲んだ。
 ふと見上げて、自分の座らされたベンチが木陰にある事に気づき、独歩は何度目か分からない謝罪をした。
「すみません。ご迷惑をおかけして」
「本当にな」
「も、もうしわけ………」
「俺らに勝っておいて暑さに負けるとか情けねぇにもほどがある」
「は、ははっ………」
 笑う以外に出来なくて、独歩は残りの半分を飲み干して、財布を取り出した。
「何してんだ?」
「え?だって、お金」
「いらねぇよ」
「そういうわけには」
「ヤクザに奢らせたんだ。今度別の形で返して貰うぜ」
「ひえっ」
 どこか悪そうな笑顔を向けられて、声がうわずる。けれど、ここまでして貰って何も返さないわけにはいかないと、独歩は鞄の中からボールペンを出した。
「あの、さっきの名刺ありますか?」
「あ?ああ………………ほらよ」
 少し折れた名刺を受け取り、裏に携帯電話の番号とメールアドレスを書く。
「俺の携帯電話番号です。何かあれば………まあ俺なんかに何か出来るとも思っていないんですが、あれば連絡してください」
「ふぅん。ま、貰っとくわ」
 左馬刻が名刺を受け取った瞬間、独歩の携帯電話がけたたましく鳴る。
「すみません」
 左馬刻に断って通話ボタンを押すと、怒鳴り声が響いてきた。怒鳴られるだろう事は画面を見て分かっていた。上司からの電話だったからだ。だから、独歩は少し携帯を耳から離していた。それでも、声は大きい。
「すぐ戻ります。すみません、すみません!」
 通話を切り、左馬刻に謝り(俺謝ってばっかりだ、などと思いながら)鞄とジャケットを抱え、走り出そうとして振り返る。
「あの、ありがとうございました!」
「おう」
 最後に一度だけ頭を下げ、独歩は今度こそ駅に向かって走り出した。早く着いても遅く着いても、上司から怒鳴られることは確定していることに気づいていたけれども。
 その後ろ姿を見送り、左馬刻は独歩の置いていった、空になったペットボトルをゴミ箱へ捨て、歩き出した。
「変な野郎だな」
 受け取った名刺の裏に、少し震えたような字で番号等が書かれている。ひたすら謝り、頭を下げている姿に、どこか似ていた。
「にしても………」
 名刺を鼻に近づけ、匂いを嗅ぐ。腕を掴んだ時から気になっていた匂いの元が、そこにあった。
「甘い匂いがすんな」
 気のせいかとも思ったが、明らかに違う。だが、まあ気にかけるほどの事でもないか、と、左馬刻はそれを忘れた。














2021/2/13初出