* 海よりも深く、溺れるように after *


 やかましくチャイムが鳴る。うるせぇな、と思いながらベッドから降りる。脱ぎ捨ててあったパンツとズボンだけを履いて部屋を出て、玄関へ向かう。
 誰が来たのかを確認せずに、チェーンはかけたまま鍵を開け、軽くドアを開くと、見慣れた顔がすぐさま、九十度に頭を下げた。
「若頭、お疲れ様です」
 一度ドアを閉め、チェーンを外してもう一度ドアを開ける。
「おう、何だ?」
「いや、若頭がすぐ食べられそうなもの持って来い、って言ったんすよ」
 やってきた部下が手に持っているのは、紙袋二つ。地元ではそれなりに名の知れたパン屋の名前が入っている。
「ああ、そういや、電話したな」
 何時間か前の話で、正直左馬刻は覚えていなかった。
「あの、大丈夫、っすか?何か、疲れてる感じっすけど」
「あ〜、まあ疲れてるな。でも、問題ねぇよ。後一日もすりゃ、抜けるだろ」
 紙袋を受け取り、中を確認すれば、何種類かのサンドウィッチやクリームなどを挟んだパンが幾つか入っている。何が好きかなど知らないから、適当に買ってこさせたのだ。
「抜ける?」
「番が発情期(ヒート)に入ってる」
「え?若頭、番出来たんすか?」
 男が、尊敬する上司である左馬刻がαなのは知っていた。だが、長年決まった相手もおらず、番を作る様子もなかったのだ。
「めでたいじゃないっすか!祝わねぇと!」
「いや、そういうことすんな」
「ダメっすか?」
「ああ。上には言ってもいいが、報告程度にしとけ。周りにもやたら言うなよ」
「理由を、聞いても?」
「カタギだからな。至極真っ当な奴をこの世界に引きずり込む気はねぇよ」
 左馬刻が、裏社会である極道の世界へ、カタギの足を踏み入れさせたくないと考えているのは知っていた。自分から進んで踏み込むのは個人の自由だろう。だが、背を向けている相手の肩を掴んで、無理矢理引きずり下ろす気はないのだ。
 言い方がおかしいが、真っ当なヤクザなのだ。男は、左馬刻のそういう部分が好きだったし、尊敬していた。
 その時、部屋の奥から物音が聞こえ、どすん、と大きな音が響いた。
「ベッドから落ちたな。ちょっと待ってろ」
 受け取った紙袋をリビングのテーブルの上に置き、奥の部屋の扉を開けた左馬刻が、中へ消える。
「立てるわけねぇだろ!大人しく寝てろ!」
 左馬刻の怒鳴り声が響く。若頭は番にも容赦がないんだなぁ、などと男がつらつら考えていると、部屋から出てきた左馬刻が、男へ封筒を差し出した。
「まだ何日か顔出せねぇから、お前らで好きに使え」
「え?いいんすか?」
「ああ」
「あ、この間引き取った男はどうしますか?」
「男?………ああ。留め置いとけ。あいつの発情期(ヒート)が抜けたら、俺が潰す」
 一瞬で、左馬刻の背後に、炎のような怒りが燃え上がったように見えて、男は背中を震わせた。
 受け取った金に礼を言い、部屋を辞す。他の連中とピザでもとろう、と思いながらも、男は、左馬刻の部屋の玄関に置かれていたのが女物の靴ではないことに気がついていて、けれど、見なかった振りをすることにした。
 この世界では、沈黙が金以上の価値を生むことがある。自分の命、と言う価値を。


 目を覚まし、視界に入ってくるもの全てに見覚えがなく、あ、と声を出そうとして喉がひりつき、声が出ないことに気づき、体を動かそうとしても、まともに腕も上がらない。
(ここ、どこだ?今、何時?)
 自分がどこにいて、何をしていて、今が何時なのかも分からず、ひどく気怠い全身に力をこめて、寝返りを打った。
(ドア、開いてる)
 顔の位置が変わり、見えた扉が開いて、光が入ってきているのが分かる。遠くから人の話し声が聞こえ、微かに聞こえるその声に、独歩は唐突に戻ってきた記憶に慌てた。
 慌てた人間は、不思議と反射的な力を発揮することがある。その瞬間の独歩はまさにそれで、急に起き上がり、ベッドから降りた。
 いや、降りようとした。したが、体に全く力が入らずに、布団を巻き込んでベッドから滑るように、落ちた。
(何?何で、立てないんだ?)
 荒い足音が近づいてきて、人影が差す。
「立てるわけねぇだろ!大人しく寝てろ!」
 独歩が顔を上げて声を出そうと口を開く前に、腕が伸びてきて独歩の体を抱えるとベッドへ乗せる。
「ちょっと待ってな」
 軽く髪をかき混ぜられて、背中が向けられる。しばらく待つと、部屋を出て行った左馬刻が戻ってきた。
「飯にするぞ」


 目の前に、紙袋から取り出されて並べられたのは、色取り取りのパン。サンドウィッチにクリームパン、あんぱんに焼きそばパン、チーズののったパンにフルーツののったパン………それらを見た瞬間、独歩の腹の虫が盛大に音を立てた。
「ぶふっ………まあ、そうなるわな」
 コーヒーの香りが、独歩の鼻を擽る。キッチンに立つ左馬刻が入れているらしい。少し離れているのに聞かれた、と独歩が下を向いていると、目の前にマグカップが置かれる。
 湯気の立つコーヒーと、パン。それを見た独歩は、最後に食事らしい食事をしたのはいつだ?と思い出そうとして、思い出せない事に気がついた。
「声、出ないだろ」
 言われて頷く。好きに食べろ、と促され、目の前にあるクリームパンを手に取った。袋を開けて漂ってくる甘い香りに、食欲をそそられてかじりつく。
 着せる物がなかったため、独歩は左馬刻のシャツを着ている。それを、左馬刻は後悔していた。
(細すぎだろ、こいつ)
 半袖の袖口から覗く腕が、細い。しかも、あちこち左馬刻自身が噛みついた、赤い痕が見え隠れするのだ。
「まあ、あんだけ喘いでればな」
 からかい混じりに左馬刻が言うと、独歩が半分ほど食べたクリームパンを握り潰した。真っ赤になって、握り潰したパンを持ったまま動きを止めている。
「立てないのも、まあ、ヤリすぎだな」
「っ………っ………」
 髪の色と変わらない位赤くなるのではないか、と言う程に独歩の顔が赤くなっていく。声にならない呼吸だけの音が口から零れ、鯉のように口を開け閉めする独歩が面白くて、左馬刻は腕を伸ばし、独歩の手からパンを取り上げ、テーブルに置く。
「後な、先生には報告してあっから」
「っ!?」
 顔だけではなく、耳まで赤くしていく独歩が、そのまま後ろに倒れそうで、左馬刻は、パンを取り上げられた状態で止まった独歩の手を掴んで引き寄せ、握り潰した反動で零れたクリームのついた指を、舐めた。
「ふあっ!」
 どっから声出してんだ、と言う声を上げた独歩に驚いた左馬刻が顔を上げると、眼を閉じて震えている。
 掴んだ手を離し、その手に別のパンを握らせる。
「ちゃんと食えよ。途中でバテても、俺はやめねぇからな」
 言われた意味を理解したのか、独歩は目の前にあるパンを掴んで袋を開けると、顔を上げることなく、もそもそと食べ始めた。
 からかった自分が悪いが、素直過ぎる反応を示した独歩も悪い。そう結論づけた左馬刻は、肉の挟まれたサンドウィッチを掴むと、豪快にかじりついた。
 次は、どうしてくれよう、と。







afterです。そのままです。
後日談的な、そういうのが書きたいと思って書きました。
免疫0な独歩が今後どうなっていくのか。
左馬刻といることに慣れることが出来るのかどうか。
そんな感じの続編を書きたいと思っています。





2021/10/1初出