今年の夏は暑く長い、と天気予報で言っていた通り、八月が終わっても夏の気配は色濃く、秋の気配はほど遠かった。むしろ、八月が終わってからの方が気温は高いのではないか、と思う程の体感だった。 額から落ちる汗を袖で拭い、独歩は社屋へと入った。気の進まない足を無理矢理前に運び、たどり着いたデスクのあるフロアは、見事に電気が消えていた。 「は、ははっ………はぁ」 一人で笑って、自分のデスクがある近辺だけの電気を点け、椅子へ腰を下ろす。 朝からクレーム対応で謝り続け、挙げ句の果てに上司の尻拭いをさせられてまた頭を下げ、自分の頭はただひたすら下げる為だけについているのではないか、と思う。 「何で、俺働いてるんだ?」 食べていくためだ、と言う回答がすんなりと自分の中で出てきて、嫌になる。 疲れた頭を動かせば、窓の外に、見慣れたシンジュクの夜の街のネオンが輝いている。あの明かりの中で、一体どれだけの人間が蠢いているのだろう。こんなさして大きくもないビルの中で、一人鬱々とした気分に浸っている社畜のことなぞ、誰一人気に止めることなく、人々は活動している。 考えるのが嫌になり、独歩は鞄の中から書類を取り出し、仕事に着手した。仕事をしていれば、考えなくて済む。手を動かし、頭を動かし、ひたすら終わるまで没頭すれば。 無心を心がけて仕事に没頭していると、携帯電話が鳴る。見たことのない番号に首を傾げて、通話ボタンを押す。 「はい?」 『よぉ、リーマン』 「どちら様でしょうか?」 本気で誰だか分からず、独歩は携帯電話を耳に当てたまま首を傾げた。 『んだと!?てめぇが教えたんだろうが、番号!』 「ひえっ」 荒げられた低い声に、何日も前の出来事を思い出し、相手が目の前にいないにも関わらず、独歩は反射的に立ち上がり頭を下げた。 「すみません!すみません!すみません!」 『ちっ………おい、てめぇ今暇か?』 「今………残業中ですが」 『今から地図送るから、その場所教えろ』 「へ?」 言うなり通話は切れ、携帯電話の画面にメールが送られてくる。開くと、添付ファイルに手書きらしい地図があった。 「読みづらっ」 だが、住所も併記してある。それは、シンジュク・ディビジョン内の住所だった。 「あれ?ここって」 地図をまじまじと眺めていると、再び電話が鳴り、慌てて出る。 『その場所分かるか?』 「え、ええ、まあ」 『どこだ?』 「一二三の勤めてるホストクラブの近くです」 『ホストの勤め先なんか知らねぇよ』 それはそうだ、と思い、自分のデスクを見下ろす。どうせ、また明日も残業だ。 「今、どちらにいるんですか?」 『シンジュク駅』 「今から伺います」 目の前にある仕事から目を背け、独歩は通話を切ると、重い鞄を持って社屋を出た。 仕事という日常から切り離されたい、と言う思いが、どこかにあった。 シンジュク駅前に、やたらと目立つ姿をすぐに見つけて、駆け寄る。 「お待たせしました」 「おう」 吸っていたらしい煙草を足下に落として靴底で踏み潰し、左馬刻が顔を上げる。 「仕事で来たんだが、あんな地図じゃわかんなくてな。先生に聞こうと電話したら出ねぇから、次点でてめぇにかけた」 「夜勤されてることもありますから、先生」 医師として病院に勤めている神宮寺寂雷は忙しい。場合によっては夜勤で電話に出ない事もある。 「こっちですね」 促して歩き出す。シンジュクの街は夜も眠らない。人出は昼間ほどではないものの、少ないかと言われれば少なくはない。 「なあ」 「はい?」 「暑くねぇのか?」 言われて、それが長袖を着ている自分の事だと気づく。鞄とジャケットは手で持っているが、袖を捲っているシャツは長袖だ。 「暑いです。でも、仕事着なので」 ちらりと、自分より背の高い左馬刻を盗み見れば、汗などかかなそうな顔をしている。 ああ、きっとこういう人が……… 「この辺か?」 「えぇと、もう一本向こうですね」 細い路地が幾つかある場所で、確かに普段来慣れない人間には、同じ場所に見えるのだろう。ビルの形も似たり寄ったりだ。 「この住所だと、この先の………ああ、この路地の奥ですね」 示した先には、雑居ビルが幾つかある。電気が点いている場所もあるが、点いていない場所もある。 「助かった。ここでいいぜ」 「え?でも………」 「これでこの間の奢りの件はチャラだな」 じゃあな、と言うと、左馬刻は独歩の返事も聞かずに路地の奥へ入っていくと、迷うことなく雑居ビルの一つの扉をノックもなしに開け、中へと入っていった。 このまま路地の入り口に立っていても、邪魔になるだけだろう。待っている必要などないのだろうし、と熱帯夜の空気を撥ねのけるように左右に軽く頭を振り、独歩は路地から出ようと踵を返した。 そこへ、大きな音を立てて、物が倒れるような、壊れるような音が重なる。 反射的に振り返れば、先程左馬刻が入っていったはずの扉から、男が一人、路地へと転がり出てきている。 明かりの乏しい路地だ。男だ、と分かる程度で顔までは分からない。その男を追ってなのか、左馬刻が開け放たれたままの扉から外へと出てきた。 すると、左馬刻から逃げようとしたのか、路地へと転がり出てきた男が立ち上がり、大通りへ向けて路地を走ってきた。つまりは、独歩の立っている方向へ。 「そこどけ!」 「えぇえええ!?」 声を上げながら走ってくる男へと、独歩は咄嗟に持っていた鞄を振り上げた。反射的な行動だ。向かってくる相手を避けよう、と言うよりも、ぶつかってくるものを見ないようにしよう、と言う程度の。 そうして振り上げた鞄は、たまたま男の顔面に当たり、その反動で男は背中から路地へと、見事な大の字で倒れ込んだ。 「はっ!やるじゃねぇか、リーマン!」 どこか楽しそうな左馬刻が、近づきながら笑っている。 「って、気絶してやがる」 倒れ込んだままの男の顔近くに座り込み、その頬を叩きながら左馬刻が溜息をつく。 「おい、てめぇその鞄何が入ってる?」 「え?あ!昼間取引先から返して貰ったカタログが………」 言いながら取り出したのは、医療器具が掲載された分厚いカタログだ。鞄が重たいのはこれのせいだった。 「鈍器じゃねぇか」 「は、ははっ………」 「ったく。仕方ねぇな」 言いながら、左馬刻はスマートフォンを取り出すと、どこかへ電話をかけ始めた。しばらく話し、声を荒げたりもしていたが、話しがついたらしく、通話を切り立ち上がる。 「すぐ部下が来るからこいつ引き取らせる」 「あの、その人は一体?」 「聞きてぇのか?」 「い、いえ」 「まあ、あんた普通だからな。あんま関わらねぇ方がいいぜ。悪かったな、巻き込んで」 その言葉が、何故か独歩に突き刺さった。人と関わるのは嫌いで、面倒で、いつだってそこから逃げていたはずなのに………前を向けない自分を、見透かされた気がして。 ![]() 2021/2/28初出 |